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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!64

1 :神奈川県民:2012/02/05(日) 20:24:57.24
卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす」と魏志は記す。
現実の政治は男弟が助けるだけで、倭国王が本来兼ね備える
執政・司祭権の一半を卑弥呼・男弟は分担するのであろう。
「鬼道・惑わす」の語は中華思想に発する表現であろうから、
鬼道の語意は祖霊の概念を含む、祭儀が倭国王制を彩る礼制となり、
そのことが記載されてるのだろう。

魏王朝に朝貢した女王卑弥呼、そして謎の古代国家"邪馬台国"について議論しましょう。

前スレ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326970386/

2 :サガミハラハラ:2012/02/05(日) 21:45:04.54
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(サクラオカ)です。
卑弥呼は記紀にでているだれでもありません。


3 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 21:59:20.44
>>2

   o   o    
  ノi^ヽ、_,ヘ、   
   / _,,,......,,,_i    
  γノノλノ))   . サガミハラハラ氏は公園を今すぐ発掘しなさい!
  ,ヘ,ゝ゚ ー゚ノ,)    
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    今晩、掘りなさい! スコップとツルハシで・・・
 ζ_./'~|鬥「|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘   


4 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:16:16.39
ていうか説明が不足すぎて良く解らなかったんだが

奈良の纏向遺跡には九州の遺跡と関連性がない
→つまり奈良には別の勢力があった。

けど九州王朝のシンボルを持ってる(ダレが?かがわからないだが)
→よって九州から違う勢力が奈良にやってきた。

って事?つまり邪馬台国が東征して奈良の勢力を滅ぼし大和朝廷になったって事でいいの?

5 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:18:01.08
三種の神器といえば、吉武高木遺跡だが。
日向峠に近いことに、なにか関連はあるのかな。

6 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:19:56.68
中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は日向神話についてこう語る

「隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを正当化するための造作を
加えたものが記紀の日向神話。そこには記紀編さん時の、南九州、南島の領域化という
朝廷の政治的関心、意図が強く反映している」

日本書紀の編纂は天武朝が白村江で唐に刃向かった
天智朝勢力とは一線を画していることを
明確にしなくてはならなかった
そこで、本来北部九州に降臨したはずの神話を日向国に変えた
任那を失って久しく、また渡来人の朝廷政治への影響力も薄れていたからだ
そこで経営に腐心していた皆に九州勢力に対する懐柔策として
日向神話に天孫降臨が加えられたのだ

7 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:21:03.47
皆に九州→南九州

8 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:22:49.59
>>4

>けど九州王朝のシンボルを持ってる(ダレが?かがわからないだが)
>→よって九州から違う勢力が奈良にやってきた。

違う。九州の剣と鏡が畿内から出るようになったからといっても、
それは「先進文化」が伝播しただけの話し。

明治時代になって、日本人が刀やチョンマゲを捨てて背広を着るようになったら、
西洋に侵略されたとでも考えるのか?


9 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:25:30.41
>>6
たかが隼人を懐柔するために、自分たちの歴史を変えるなんてことが
あるのかなあ。

10 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:25:59.01
>>6
>そこで、本来北部九州に降臨したはずの神話を日向国に変えた

隼人を懐柔するために、天孫降臨神話を創作したのは事実だが、
「本来北部九州に降臨したはず」という話にはならない。

11 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:27:11.53
>>8
解りやすく説明してよ。どういう主張なのかわからないんだよね。

12 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:29:56.91
>>9
もともと半島の神話だし、それをもってきた人たちはもう中枢ではない
どこでもよかったんだが、当時の情勢として南九州が都合がよかったんだろう
神話学的にはウミサチ・ヤマサチなどははっきりと南方系であり
天孫降臨は日向神話の中で異質だ

13 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:31:19.14
>>11

邪馬台国は畿内。
卑弥呼も畿内にいた。
卑弥呼の死後、男王に代わり、大和王権になった。

簡単な話しだろ?


14 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:34:17.78
>>10
そこは金官国(半島の倭、任那)首露王がクシ岳に降臨した神話との
類似をあげるしかない いずれ150年頃に南九州が入ってくるわけはない
この頃に狗邪韓国遺跡の出土品にも変化が見られる
この勢力が九州から畿内に入って主導し
公孫氏と通じて画文などを輸入したという仮説だ

15 :メ(ねる):2012/02/05(日) 22:35:04.32
>>537 朝鮮
>メ君が、韓には78国もあるのだから倭の地域は狭小である、
>などと意味不明のことを書いているので再度説明しておく。
>狗邪韓国が〜国と書いてあるということは、それが倭の国々の中の一国であるということである。

うんうん、これはいいとして・・・

>つまり朝鮮半島には狗邪韓国以外に倭の国々があったのである。

あっはは 失笑する以外ないw
韓伝には、韓の国々が、倭人伝には倭の国々が記載されるてます。
で・・・半島内に、狗邪韓国以外で倭のなんて国があったんです?w

>また弁辰の中に弁辰狗邪国があると書かれており、弁辰のトクロ国が倭と界を接すと書かれている。
>だから明らかに弁辰狗邪国と狗邪韓国は別の国である。

同じか別か、は置いといて・・・両者とも釜山周辺が予想されてます。

16 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:35:25.61
>>4
俺の意見でいいなら。
東征はないらしいよ。発掘結果を尊重するなら。
俺は、九州の卑弥呼を共立した者たちが、その支持する相手を、九州から纏向へ切り替えたと、
考えたいと思う。
卑弥呼を共立した会合のメンバーは、卑弥呼を支持した者だけじゃない。
中立のもの、敵対勢力の者は、邪馬台国の構成国に入らないだろう。
その中立勢力の中に、纏向か入っていたのでは、と俺は考える。
だから、共立メンバーの支持さえ得られれば、九州とは関係なくても正当な後継政権といえる。
九州とは無関係に誕生した大和が、正当政権の証ともいえるシンボルを持ち、
九州の無関係なことが考古学的に明らかなのに、自ら九州出身と主張するのも、
そう考えると、理解できるように思える。
もはや、考古学の結果は無視できない…。
とはいえ、九州説は天皇家自らが主張してきたことだ。
それを矛盾なく理解しようとすると、俺はそう考えるしかないと思う。

17 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:36:54.49
>>14
2世紀に朝鮮人の王族が日本に来たと主張したいのなら、
はっきりいって全然ダメ。

九州の影響が畿内に無いように、
朝鮮式土器は、畿内からは出ないからな。


18 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:39:08.99
>>16
>とはいえ、九州説は天皇家自らが主張してきたことだ。

ミスリードはよせ。

天皇の祖先が九州から来たとは神話にあるが、それは紀元前660年のことだ。
邪馬台国の時代では、景行天皇が九州を征服している。



19 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:39:24.25
>違う。九州の剣と鏡が畿内から出るようになったからといっても、
>それは「先進文化」が伝播しただけの話し。
自分たちの文化を残しているのならば、そのようにも考えられるだろう。
しかし、銅鐸は消えた、九州の文化一色に塗り替えられた、これは先進文化が
伝播してきたというわけにはいかない。



20 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:41:38.52
>>19

>しかし、銅鐸は消えた、九州の文化一色に塗り替えられた、これは先進文化が
>伝播してきたというわけにはいかない。

九州の銅矛や、カメ棺も消えている。
一方的な見方は止めたまえ。

銅鐸が消えたことと、九州は何の関係も無いね。




21 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:42:54.22
>>17
多数来たわけじゃない しかも纏向以前の話だ
おそらく大阪八尾市周辺が拠点だろう 
ここで大和川水系を中心とし、近江ー東海や四国と関係をつけ
纏向建都に持っていった

22 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:44:25.65
>>19
[九州の文化一色に塗り替えられた]と、綴ってるが、具体的に九州の文化が畿内を塗り替えた事例などない。

鏡と剣が宝物・文化として伝播しただけだ。
前方後円墳も近畿が発祥であり、後から九州に伝播している。



23 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:44:49.68
   o   o   
  ノi^ヽ、_,ヘ、 
   / _,,,......,,,_i  
  .γノノλノ))  天孫降臨伝説は葛城だったが蘇我氏の出身地では不都合なので
  ,ヘ,;ゝ゚ -゚ノ,)  
  ,ゝ.(,.」 鬥,)]つ 大和朝廷にとって不本意ながら九州の日向国にした
 ζ_ U |鬥|.|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘  


24 :メ(ねる):2012/02/05(日) 22:45:45.78
>>580-585
>東夷七國詣校尉内附

これはどっから仕入れた情報か知りませんが・・・
水野祐氏の12600円「評釈魏志倭人伝」にそんなことチラッと載ってましたね。

私はこの本を所持してないんですが(本屋さんで観たダケ)
誰か所持してる人はおるんだろうか?
http://books.google.co.jp/books/about/%E8%A9%95%E9%87%88%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D.html?id=IRexPAAACAAJ&redir_esc=y

25 :メ(ねる):2012/02/05(日) 22:47:30.01
>琉球国まで水行五日

流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/ryukyu.htm

流求國が台湾ならば、約100km
流求國が沖縄ならば、約500km ぐらいだろうか。

そうすると台湾ならば、水行一日は約20km、沖縄ならば、約100kmとなる。
たぶん台湾なのだろうが・・・対馬〜壱岐間は2,3日かかっただろうね。
まあ、水行一日も夢ではないと。


26 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:48:01.36
徐福=神武天皇説もあるよね。

27 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 22:54:51.11
>>20
銅鐸は近畿地方周辺でどんどん発達し大型化していく。
結果的に、その頂点で銅鐸は作られなくなり、祭祀も消えていった。
そして、古墳時代になり鏡が急速に普及していく。
これは宗教の変化に等しいが、何が原因なのだろうか。
どうして銅鐸を捨てたのだろうか?

28 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:01:19.35
鏡文化を持つ人がやってきて、支配したことを想定するなら、銅鐸が消滅した
ことは容易に理解できる。しかし、自然に、自発的に銅鐸信仰をやめて、
何の関係もない鏡文化に浸っていくというのはかなり理解しがたい。

理解しやすいことが拒否されて、理解し難いことがまかり通っているのも
また理解しがたい。

29 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/05(日) 23:01:49.75
>>26
年代が違うから別人です。徐福のほうが古いですね。

30 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:02:59.43
>>27

銅鐸というのは、墳墓からは出ない。
つまり、首長の財産ではなく、ムラ(共同体)の祭祀で使われたもの。

ムラの中で階層化(貧富の差)が生まれ、「首長」が登場すると、
共同体祭祀は無用となり、首長を崇めるようになる。
そして、首長が死ぬと、大きな墳墓を作り、奉るようになる。
その時点で銅鐸は奉られることはなくなるし、自然と忘れ去られる。

外部勢力が銅鐸を滅ぼしたなど、小学生の発想だよ。


31 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:04:42.03
>>28
>鏡文化を持つ人がやってきて、支配したことを

九州から人が来たという証拠は、一切ありません。

まず、現実を直視しよう。


32 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:05:03.03
前にテレビで銅鐸がバラバラになって発掘される事から
銅鐸は粉々に砕かれて捨てられたって説を唱えてたな。



33 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:07:26.25
>>30
それも重大な変化と言える。
銅鐸は、ムラ社会、共同体社会の中で生まれたもの。
古墳は首長の存在なくしてはありえないもので、全く異質の社会の
物といえる。突然の急速な変化をどのように説明したらいいのか。

34 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:09:12.73
>>31
皇室の歴史書といわれる記紀では、皇室の祖先は九州からやってきている。

35 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:10:25.08
銅鐸と矛はセットで考えなくちゃいけない。
出雲での対象出土状況が物語っているでしょ。
それに銅鐸自体は北部九州でも造られたしな。

それに文様を見る限りは銅鐸から鏡への連続性も
伺えるので、〜征服説は説明し難い状況だよ。

36 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:11:45.82
銅矛、銅剣も廃れてるな

37 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:12:51.68
甕棺も

38 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:13:38.19
>>33

九州の要素を考える必要は全くないね。


39 :メ(ねる):2012/02/05(日) 23:13:38.50
お、なんかみなさんお詳しいですね。

>銅鐸が消えたことと、九州は何の関係も無いね。

石器時代→青銅器時代→鉄器時代へと時代が流れていくにつれて
畿内では、これまで行われていた巨大な銅鐸を用いて祭祀をする文化から変化が生じるんですが
九州でも、カやホコといった巨大な青銅器から、また新しい文化へと変化が生まれてくる。
九州は関係ないというのは間違ってると思いますよ。


40 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:14:46.19
>>39

東遷説でもないくせに、東遷説の片棒かつぐんじゃねえよ。


41 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:16:13.36
ところでなんか邪馬台国研究のわかりやすいサイトとかない?
2.3個見てみたんだけど良く解らなかった。まず素人はこのサイトで勉強しろ
みたいなサイトおしえて。

42 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:16:28.28
巻向周辺の古墳で影響が強いのは、阿波、吉備なのは
既に常識だと思う。
これはモモソヒメの伝承エリアとは一致しているあろう。

そのモモソヒメの母が南方系の名を持つなら、
南九州から来たという、神武の伝承とは多少は
関連があるのかもしれないよ。

43 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:19:25.96
>>41

邪馬台国九州説以外のサイトを読むこと。

44 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/05(日) 23:19:44.58
>>24
晉書卷三  帝紀第三   武帝
太康 九年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。


銅鐸祭祀の終焉は、2世紀末 後漢193年冷夏飢饉、新羅192,3年倭人大餓
が発端である。

この時を境に、唐古・鍵遺跡も放棄される、その後戻った民は少ない。
この飢饉を境に銅鐸から大型墳墓へと祭祀が変わる。


45 :メ(ねる):2012/02/05(日) 23:19:50.38
>>41

ここが良いと思いますよ^^

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/2setu.htm

46 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:20:49.44
北部九州における銅製武器型祭器の埋納状況

福岡県福岡市西区下山門字敷町 中細形銅戈3 口。包含層にピットを掘って埋める。
福岡県春日市岡本辻 広形銅矛9 口。地表下5−6 寸に石1 個、その1 尺5−6 寸下に刃を打
ち違えて密接したまま埋没していた。
福岡県春日市小倉西方 中広形銅矛9 口。1m×0.4m、深さ0.3mほどのピットに納められて
いた。
福岡県春日市原町3 丁目 中細形と中広形の銅戈48 口。茎と鋒を交互に並べ、刃を立てた
状態で埋納されていた。
福岡県筑紫郡那珂川町安徳原田 広形銅矛12 口。地下2.5 尺に12 口まとめて、刃を互い違
いにして横に並べてあった。
福岡県小郡市乙隈東畑 中広形銅戈2 口。地表下60cmに20cm間隔で水平に置かれていた。

47 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/05(日) 23:21:41.84
新羅192,3年≠崇神5,6年

48 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:22:17.49
>>45

一番、読んじゃいけないサイトを紹介するとは、そうとう君も悪質な人間だな。


49 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:22:27.32
北部九州における銅製武器型祭器の埋納状況2


福岡県浮羽郡吉井町つるかけ 中広形銅矛3 口。三枚重ねて地中にあり。
福岡県浮羽郡吉井町徳丸堂の前 中広形銅戈2 口。地下げ中2 口重なって出土した。
福岡県糸島郡二丈町深江井牟田 中国式銅剣1 口。約50cm 四方の土坑に埋納されていた。
福岡県筑前町三並ヒエデ遺跡 銅戈17 口が筒型土器に入った状態で埋納と復元されている。
福岡県筑紫野市隈・西小田第7 地点 中細形銅戈23 口。鋒を交互に組み合わせて埋納と推
定。銅戈容器らしき土器も出土した。
福岡県浮羽郡日永 広形銅矛1 口、広形銅戈1 口。1m×25 p、深さ15 pの土坑に鋒をそろ
え刃を立てた状態で埋納されていた。
福岡県田川郡糸田町古賀ノ峰遺跡 中細形銅戈5 口。刃を立てて鋒をずらして同一方向にそ
ろえて埋置されていたと復元されている。
福岡県北九州市小倉南区重留遺跡 広形銅矛1 口。後期中頃〜後半の竪穴住居内の土坑に埋
納。刃を立てた状態。複数回の埋納痕跡あり。
福岡県小郡市寺福童遺跡 中広形銅戈9 口。刃を立て鋒を揃える7 口と、同じく鋒を反対に
して揃える2 口を並べ揃えて埋置する。埋土中に青銅器片があったことから先行する埋納が
あったと考えられている

50 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:23:28.38
九州における銅製武器型祭器の埋納状況2

佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡 中広形銅戈1 口。48 p×24 pの土坑に刃を水平に埋納。後期前
半以降とされる。
佐賀県三養基郡みやき町検見谷遺跡 中広形銅矛12 口。1・2 号と3〜12 号は分かれる。1.5
m×1.3mの土坑に刃を立て耳を上にして鋒を互い違いにして埋納と推定復元されている。10
口に研ぎ分けあり。
佐賀県鳥栖市江島町本行 中広形銅矛1 口。長楕円形の土坑に刃を立てて埋納されていた。
長崎県対馬市上県町佐護クビル 広形銅矛3 口、中広形銅矛1 口。石蓋をもった石槨内に朝
鮮系陶質土器などとともに納められていた。宗教的な特殊埋納遺構ともいわれる。
長崎県対馬市峰町三根ガヤノキE地点 中広形銅矛1 口。石蓋土壙(特殊埋納遺構)。鉄剣、
鉄刀、ガラス小玉などと共伴。
長崎県対馬市豊玉町大綱 中広形銅矛11 口。狭い谷の東向き斜面に鋒を互い違いし箱に収
めたかのような状態で埋納。その下と上に石があったという。
長崎県対馬市豊玉町佐保シゲノダン 深樋式銅剣1 口、中広形銅矛1。埋蔵土坑。十字形柄
頭金具などと共伴した。

51 :メ(ねる):2012/02/05(日) 23:25:10.90
>>48
あっはは w
安本氏は論外だけど・・・
畿内説、九州説、てなぁ〜に?ていう分野のみでいくと、あそこは分かり易いと思いますw

52 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:25:31.33
九州における銅製武器型祭器の埋納状況4

長崎県対馬市豊玉町佐志賀黒島 広形銅矛15 口。地下2 尺から、目立った施設はなく、た
だ並列にあったという。
熊本県熊本市植木町今古閑 中細形銅矛4 口。竪穴住居内の高床に4 口並べてあった。
大分県宇佐郡安心院町且尾谷迫 中広形銅矛7 口。7 口まとめて埋納されていたが詳細不明。
大分県大分市浜 中細形銅剣4 口。鋒重ね。方2mほどの縦穴に納められていた可能性あり。
大分県宇佐市川部 細形銅剣鋒。祭祀土坑から出土した。

いいかげん銅鐸だけ埋納されて廃れたという考えは改めたほうがいい

53 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:25:49.77
畿内説の考古学者は意識的に九州を避けている。
無視しようと懸命になっていると言ったほうがいいかも。

54 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:32:59.30
九州説はサギだからしょうがない。


55 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:35:10.71
上の武器型青銅器の九州における埋納状況を論文にまとめたのは
奈良文化財研究所の石橋茂登だがな

56 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:40:06.95
>いいかげん銅鐸だけ埋納されて廃れたという考えは改めたほうがいい

そうだよね、未だにそう思ってる人がホント多いから。





57 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:40:10.88
「日本書紀」の編者たち
・邪馬台国は神功皇后の時代
・女王卑弥呼=神功皇后

あれ、日本書記に卑弥呼の記述はあるんだ。

58 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:42:21.13
>>57
注釈扱いでな。文言で記述残さないと中国に見せられないでしょ。

59 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:42:58.49
>>57
いまさら初歩的な話はいいよ。
そんなこと知らない者はここにはいない。

60 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:44:41.51
ここにいる人たちはみんな日本書紀読んでるの?
三国志正史蜀書なら読んだんだけど。

61 :メ(ねる):2012/02/05(日) 23:50:44.14
話題とは関係ない話になってしまうんですが・・・

「邪馬臺國」と「邪馬壹國」に関することで、
これらは、ぶっちゃけ〜「ヤ」「マ」「ト(ド)」と発言するのが正しいんですが、
九州王朝説をとりたい人も多くいるだろうが、はっきりいってないだろうねえ。

こんなことを言ったら、1644年から1912年まで中国を支配した清のときにできた
版本に「邪馬一國」とあるじやないかなんて言われそうですが、これは近代すぎて参考にすらならない。

又、三国志呉書によると孫羌の字が「聖壹」てになっているらしく、
この兄弟が「文臺」「幼臺」といわれてて、「聖壹」は「聖臺」と書き間違ったのではないか
なんて言われてたりする観たいですな
http://www.windsnet.ne.jp/column_n/colum.php?day=20100222447

62 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 23:53:40.60
>>60
日本史好きだからねえ。
そうでない人、ここに来ないでしょ。
俺の持ってるのは、書紀は講談社学術文庫版、古事記は角川文庫版だな。

63 :ひとぶた:2012/02/05(日) 23:57:45.54
>>42

> 巻向周辺の古墳で影響が強いのは、阿波、吉備なのは
> 既に常識だと思う。
> これはモモソヒメの伝承エリアとは一致しているあろう。
> そのモモソヒメの母が南方系の名を持つなら、
> 南九州から来たという、神武の伝承とは多少は
> 関連があるのかもしれないよ。

スタートが南九州なのかはさておき、
吉備あたりで顕著になった出っ張り付円形墳丘墓+鏡、剣の副葬は、
弥生時代を通じて徐々に東進していて、
庄内開始期には播磨・摂津と淀川の西岸まで達してますよ。

そこから、河内を飛び越して、一挙に大和に入ります。
纏向くの政治的中心が、摂津系勢力であるなら、このときにかなり強引に浸入したと考えることもできます。

64 :メ(ねる):2012/02/06(月) 00:03:33.13
>>57
ここに注意書きで載ってますよ
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/09/fr.htm

>>60>>62
>俺の持ってるのは、書紀は講談社学術文庫版、古事記は角川文庫版だな。

私はコレ

日本書紀〈上下〉 (日本古典文学大系〔新装版〕)

古事記 新潮日本古典集成

65 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:21:30.14
>九州の銅矛や、カメ棺も消えている。
>一方的な見方は止めたまえ。
一方的ではなく、同じようにみればいいんだよ。銅矛や甕棺も消えた。
倭国の乱で敗れた結果だろう。



66 :メ(ねる):2012/02/06(月) 00:26:37.07
>>63

人豚さんのはどれ使ってるの?


67 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:26:45.01
>>31
>九州から人が来たという証拠は、一切ありません。 まず、現実を直視しよう。
畿内説論者は、九州へ土器が入っているから畿内人が九州を征服した等という見方を
するんじゃなかったかな? 鏡、玉等九州特有の物が古墳時代になると全国へ広まって
行く。正にそれは九州から人が来たという証拠だよ。

68 :メ(ねる):2012/02/06(月) 00:36:25.05
銅鐸文化圏、銅矛文化圏とモノは分かれるんですが、
あっちが大きくなればこっちも大きくなるというか・・・
畿内と九州とで地域が違うんですが、所詮は同じ日本列島ではなかろうか。

あ〜もう眠いんでおち>< ではお先に・・・ zzzzzzzzzzzzz

69 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:39:10.72
畿内説でも当然色んな考えの人がいるでしょ。

70 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:47:31.24
銅鐸文化圏、銅矛文化圏はセットでしょう。
案外矛が男王のシンボル、銅鐸が女王のシンボルかもよ(逆かもしれんが)w
で、女王を共立した時点で鏡と剣に変わってゆくとかな。

71 :ひとぶた:2012/02/06(月) 00:50:11.43
>>67

> 畿内説論者は、九州へ土器が入っているから畿内人が九州を征服した等という見方を
> するんじゃなかったかな? 鏡、玉等九州特有の物が古墳時代になると全国へ広まって
> 行く。正にそれは九州から人が来たという証拠だよ。

「支配」したと言うべきかかどうかは判断が分かれるところですが、庄内土器は畿内オリジナルなんだから、
畿内から博多湾へ文化なり、直接的な人なりの移動があったとは言えるんじゃないんですかね。
それと比べて漢式鏡は輸入品であって、九州オリジナルと言うわけじゃないでしょう。
ちょっと事情が違うんじゃないんですかね。


72 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:55:26.81
邪馬台国は九州、
纏向は邪馬台国とは無関係に大和朝廷へ、
という立場もあるし。

73 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:56:46.02
鏡、玉、剣のセットとなると九州オリジナルだよ。


74 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 01:02:41.59
土器は、列島各地から纏向に土器が集まっていることを理由に纏向に強力政権が
あったことを推測するんじゃなかったかな? となると、九州の土器は纏向に来
ていない、逆に畿内の土器が九州に行っている、これは畿内と九州を比べたら畿
内が被支配地、九州が支配地ということになると思うがどうかな?

75 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 01:12:43.25
>>73
そうそう、九州色のほとんどない纏向の王は、なぜ九州王権のシンボルを持つのか…
そして、その三種の神器の保持は、歴史的に血統よりも重視されてきた。
まあ、その理由は理解できる。血統の一貫性は最初から破綻していたからだろう。
九州からの東征は、纏向の発掘結果からみて、ほぼ否定された。要するに、纏向の王は九州とは関係ない。
三種の神器って、なんなんだろうね?
三種の神器こそが、纏向の王の正統性を保証する要となっている…
九州とは無関係の王の権威を保証する、九州王権のシンボル。面白いね。

76 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 01:14:16.51
>>71
近畿地方の庄内式土器は非常に限られたところからしか出土していないな。

77 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 01:35:35.90
北部九州と巻向は対立関係では無いというだろう。
利害の一致があったという事。

78 :ひとぶた:2012/02/06(月) 01:53:30.95
>>76

> 近畿地方の庄内式土器は非常に限られたところからしか出土していないな。

「非常に限られたところ」と言うのは具体的にはどことどこのことですか?
あと、「近畿地方の庄内土器」とは、どことどこの生産地のものを想定していますか?



79 :75:2012/02/06(月) 02:28:39.36
>>77
でさ、出雲の国譲り てね、
出雲は実は、伊都国をはじめとする北部九州とは考えられないのかな?
出雲は今の出雲とは違う場所を指すのでは、とはよく言われることだ。
なら、大胆にそれを伊都国をはじめとする北部九州と仮定してみる。
すると、その北部九州と纏向をめぐる関係が、するっと理解できてしまう。
早い話が、纏向が北部九州政権へ国を譲らせた、てそのままの話なんだけどさ。
なんで出雲はやや違う場所に設定されたのか? 答は、生々しすぎるから。
隠したい真実が、すべてなにもかも分かってしまう。
纏向は、九州の王朝とは直接の関係はない。しかし、国を譲らせ、その王権のシンボル、鏡、剣、勾玉を得た。
正当な政権ですよ。ちょっと脅したけどね。
そんな感じになる。この場合…
そういえば、仲哀紀でイトデから三種の神器をもらっている。あれが国譲りなのか?
ああ、そうか。王権のシンボルもらってるんだもんな。普通じゃないよな。よく考えたら。

80 :75:2012/02/06(月) 02:39:20.22
なんていうか、俺的には、
>>79
で、自問自答しているうちに解けてしまった。
他人はアホかと思うかもしれないけど、自分としてはなんか嬉しいwww

81 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 03:52:42.66
日本列島の最高権力は
越→出雲→筑紫→畿内と交代したわけでしょ。

国譲りはこのうち、「出雲→筑紫」の事件。
>>79は違うでしょ。

82 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 04:06:09.34
>>81
いや、それがね、いまの出雲には古代からの遺跡と思われるものは、ほとんどないと聞いたよ。
だから、本当の出雲は場所がちがうのでは、とよく言われる。
越ってなに?
半島からということ?

83 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 04:10:20.40
>>82
縄文時代だから、別に大した遺跡なんかないでしょ。黒曜石ぐらいかな。
越は越前・越中・越後で分かる通り、中部日本海側。

84 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 04:15:05.81
>>83
もういいわ。そのレベルの話はちょっと。

85 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 08:04:04.49
>>75
>そうそう、九州色のほとんどない纏向の王は、なぜ九州王権のシンボルを持つのか…

考え方が違うっての。
鏡と剣はもともと中国思想の文化だ。

おまえの考え方なら、中国色のほとんどない九州の王は、なぜ中国思想のシンボルを持つのか?

というところから疑問をはじめなければならない。
その答えは「文化の伝播」にすぎないだろ。
中国人が九州を征服したとでもいうのかね?



86 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 08:36:26.22
徐々にのし上がって来た纏向の酋長くらいで考えとけ

87 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 08:53:57.11
3世紀の卑弥呼の時代の東亜世界においては

「王」を公称できる酋長なんてほんと稀有だからね

無駄に私称なんかするとすぐ潰されちゃったりしてたいへんだぞ

狗奴國王とかは委奴國王のの分家したやつに決まるよね

てか

こうぬ國王とか、いぬ奴國王ってよめちゃうじゃまいか。



88 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 09:32:54.67
>>15
メ君があいかわらずアホっぽい投稿をしてるなw

同一の資料を読んでも、各人各様の解釈をするわけで、
狗邪韓国を倭の国だと解釈する人もいれば、韓の国だと解釈する人もおり、

倭の国だと解釈する人でも、
狗邪韓国しか書いてないから、狗邪韓国しかなかったと解釈する人もいれば、
狗邪韓国しか書いてないけど、他にも倭の国々はあったと解釈する人もいるわけだ。

韓伝に倭の国が書かれてないから、倭の国はなかったと解釈する人もいれば、
韓は南で倭と接すと書かれているから、倭の国があったと解釈する人もいる。

いろんな解釈が可能なのである。誰もがメ君と同じように解釈するわけではないのだよ。

89 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 09:34:04.58
それこそ素人の俺がいうんだけどさ
「大陸からの文化の伝播」のメインルートである唐津、壱岐、対馬
から近畿系の物が出てこないのは何で?
伊都を使った間接支配とでも言うのかな?それにしても伊都からも少量
の庄内式土器くらいしか出てこないし、一大卒を置いて大陸からの文物を
検閲していた拠点にしては近畿の影が薄すぎませんか?

宗像の沖の島とはえらい違いでんな。

90 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 09:42:54.13
>>88
>いろんな解釈が可能なのである。
だが、正しい解釈は一つだってことを忘れてはいかん。

91 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 09:43:09.26
いろんな人がいろんな意見を書いていて、それはそれで面白いのだが、
君らが正解に辿り着けないのは、君らが記紀を信じていないからだよ。

記紀を信じれば、すぐに正解に辿り着けるのだ。
倭国大乱も卑弥呼共立も中国への朝貢も、記紀には書かれてないから、畿内の話ではないのだよ。

あとは九州か朝鮮。どちらでもお好きなほうを選んで下さい。

ただし行程記事を読む限りでは邪馬台国は大和が有力。
しかし倭国大乱、卑弥呼、朝貢は、大和とは何の関係もない。それだけは確実。

92 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 09:45:27.24
>行程記事を読む限りでは邪馬台国は大和が有力。
あきれるねえ。どう読んでも、九州だろう。
どう読んだら大和になるんだい?


93 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 09:53:59.75
古代史は妄想だらけになるから馬鹿馬鹿しすぎるww

94 :三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/02/06(月) 10:00:10.26
あのデタラメな旅程は都怒我阿羅欺等がさまよいながら大和に到達した道筋と重なるのではないか?

95 :稗箕狐:2012/02/06(月) 10:08:40.87
金紫光禄大夫たる伊都王の居場所は禄所で良いかとも思うし

そこに「馬」場地名が残っているのもとても素敵だと思うんだ

伊都王の別称での率善中郎将てのは秩禄比二千石直接支給とか無いだろうけど

これも光禄勲てゆう九卿のひとつの配下に属すってたてまえなんだけど

一大卒ってかいてあるけどほんとはなかみ「天率」なんだ

大陸からだとか半島の諸國からお客さん到着したら「津」でお披露目会催すんだ

「津」のあったところは今の地名で「津和崎」でいいとおもうんだ

たぶんとうじのは「津倭崎」だったかもしれんけどさ

96 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 10:13:51.71
>>95
そうか。
解った、帰っていいぞ。

97 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 10:59:25.41
>>92
九州でも南九州なら可能性はあるが、普通に解釈すると
四国か瀬戸内辺りだよ、丹の山もあるしな。

98 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 11:01:40.56
>>91
君は相変わらず全然理解出来てないね。

99 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 11:09:49.25
卑弥呼は千人の巫女を抱え、王(巫女)になってからは
人前に姿を見せてないとはっきり記述してあるからな。
前線に出て戦の指揮やあれこれ指導をする存在じゃないでしょ。
何の為に補佐する男王がいるんだよ。

100 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 11:23:00.30
百済の官職に達率(大率)、恩率、徳率、杆率、奈率というのがあったのだが、史料に  
前部奈率、中部杆率、西部姫氏達率、紀臣奈率…というのが出てくる。

この前部、中部、西部というのは何のことか知らないが、姫氏とか紀臣とかあるのが興味を惹かれる。
韓の古称辰国にヒミ氏という王統があったのであり、姫氏とはヒミ氏ではあるまいか。浜名氏は卑弥呼はヒミ氏と解している。

それから紀臣。これが日本の紀氏を指しているとすれば、百済にも紀氏がいたのである。

101 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 11:28:58.95
百済?3世紀の話ではないよw

102 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 11:56:39.40
>>92
そうなんだよな。
魏志倭人伝の世界は、九州で完結してる。
だから、纏向が不思議。
纏向には、九州の影響はほとんどない。九州の東征も発掘結果を尊重するなら、ないと言える。
結局、紀記は卑弥呼をタブラツヒメとして描いたんじゃなかろうか?
同じく卑弥呼の分身として創作した神功皇后に討たせるかたちで。
紀記は、目眩ましのため、自分を自分の分身で討たせる形で書くからね。
そして、残った九州勢力は、纏向へ国譲りしたんだろう。
イトデが三種の神器を差し出す記載のように。
そうとしか考えられない。

103 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 12:11:42.62
>>102
倭人伝は九州では全く完結しないよ。只の勉強不足ですw

104 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 12:37:32.51
役に立つ?お勉強

百済の王都五部。上部・前部・中部・下部・後部。上下は東西、前後は南北を表す。

契丹古伝に五京とか五原とか五王統が出てくるが、それと関連しているだろう。

105 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 12:57:03.88
タブラツは卑弥呼像に遠いし神功は子がいる。
半島に誰が卑弥呼像に近いのがいるの?

106 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 13:06:06.50
>纏向には、九州の影響はほとんどない。九州の東征も発掘結果を尊重するなら、ないと言える。
そんなことはないさ。古墳には鏡、玉、剣などが副葬されている。朱も使用されている。
それに貝輪あるいは銅でそれを模したもの。これらは、九州の影響だ。
だいたい、畿内は銅鐸で農業祭祀をやっていた社会だろう。身分格差だって比較的少なかった。
軍事的支配、強大な権力、それ自体、弥生の畿内文化とは隔絶したものなのだよ。


107 :sss:2012/02/06(月) 13:08:21.87
>>102
考古学はあてにならない。少なくとも、歴史学的なことはわからない。
昔、弥生時代には豚はいないとの学説を出し、弥生遺跡から豚の骨が出てきて
大恥をかいた考古学者がいた。
まともな考古学者は、「ない」と言い切ることの難しさを十分に知っているはず。
纏向に九州に影響はないと言い切る考古学者は、学問的な主張ではなく、
単に個人的な願望を主張しているに過ぎない。

108 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 14:49:55.53
>>107

九州に邪馬台国があったと断定してる自称学者へのツッコミはしないのか?



109 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:13:34.99
九州説論者の多くが主張する畿内説批判の内容は、
皆ブーメランだよなw

110 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:20:37.87
九州説なんてのは、戦後の一過性ブームだっただけなんだよ。

もう、今年は2012年だぜ。

今だに、九州説とかもうね。お話にならない。

111 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:45:25.91
もうすぐ死に絶えるさ 恨み節とともに

112 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:54:55.66
九州と畿内は互いに独立で、
余り関係はないと思うんだけどなあ。

神武のような小勢力が行ったとしても、
全体には余り影響はなかった程度だろう。
行っても行かなくてもどうでも良い程度。

113 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:00:47.64
結局、国譲りというのは、
邪馬台国から纏向の大和へ、
ということだったんだろう。
受け入れがたいが、考古学は無視できない。

114 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:08:29.58
国譲りなんだから、舞台は当然三輪山中心の話だ。
結局邪馬台国はヤマトとしか言いようがない。
水銀朱が重要になる時期と一致してるだろうよ。
簡単に阿言うと波から宇陀の丹山利権の話。

115 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:12:19.66
盾築の水銀朱は四国産だっけ。
ホケノ山の水銀朱はどこだろう?宇陀って測定結果って出た?

116 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:15:38.97
神話に近い話になるが、
伊都国のイトデが神器を渡した話こそ、
国譲りの儀式を描いたものだろう。
邪馬台国は滅び、イトの県主が残存勢力を代表したと思える。
時系列がやや乱れてるのは、紀記によくある話だ。

117 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:34:52.98
>>115
まあそのうちね。
最近は水銀朱ネタで本だしたりする人が急に増えたよ。
神武の進路なんて昔から水銀朱の場所を巡ってるとは
言われてた事だったけどね。
やはり天神山や茶臼山とか、大量に使われてるのが見つかってから
注目する人が増えたのは否めない。

118 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:43:43.73
そういや、水銀朱は丹生神社、銅は八幡神社
が表しているって話を読んだことがある。

鉄は……わからん。

119 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:48:49.66
俺が思うに、ずべて
邪馬台国が押さえていた資源を、
纏向の大和が引き継いだ
と考えればよい。
結局、利権争いだから。
鉄は、半島のたたらつ とか?
いや、知らんけど。

120 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:59:30.74
そういや、博多の上の名島の所が、多々良川だな。


121 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 18:40:44.40
>いや、知らんけど。
爆笑www 何度読んでも笑えるw 正直でよろしいw

>>105
そんな女性はいませんよ。卑弥呼は卑弥呼ですよ。
九州説なら九州の女酋、朝鮮説なら朝鮮の倭国の女王、それでいいのですよ。

しかし畿内説の場合は比定すべき女性を挙げなければならない。神功とかモモソ姫とか倭姫とかね。
ついでにいうと、卑弥呼はモモソ姫だ!などというのは徳川家康は源頼朝だ!と言っているようなものですよ。
完全な時代錯誤なのにイメージだけで語っているのです。君も騙されないように。

122 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 18:45:56.63
日本にとって最高のニュース

もし国歌を作り直すならこの人に任せれば良いのでは?

http://akiba.geocities.jp/newsnews2012/index.html

日本史上最大の天才 話題

123 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 18:58:20.47
>>121
既に理屈にもなってないなw
候補もいないのでは妄想としか言いようがない。
記述上でモモソが卑弥呼像に近いのは事実だし。
箸墓から多量の水銀朱が出るようなら、
更に可能性は高くなる。
当然候補の筆頭に上がる人物ですよ。

124 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 19:14:18.16
>>123
水銀朱が出たらなぜモモソ姫が卑弥呼になるのか、さっぱり分らないが、
別に知ろうとも思わない。水銀朱なんて腐敗防止のためにポピュラーに使われたものではないのか。

いや、知らんけどwww

125 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 19:54:22.13
>>124
卑弥呼の嗜好品の中に鏡と共に鉛丹ならあるぞ。
当然水銀朱があるなら石室内には敷き詰めるだろうな。

ま、何も理解出来ないか、単なる荒し目的だから
「卑弥呼は朝鮮にいた 」なんて寝言いってるんだろうがw

126 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:16:02.98
まかんに卑弥呼がいたってふつうかなとわおもふが

127 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:18:12.50
倭人伝は、玄界灘を渡ったあとで、卑弥呼が書かれてるわけだから、
逆立ちしたって朝鮮という話しにはならない。

128 :あらため だよん:2012/02/06(月) 20:19:49.72
>>124
>水銀朱なんて腐敗防止のためにポピュラーに使われたものではないのか。

水銀朱ていうのは、腐敗防止の作用があるみたいですが、
被葬者を腐らせない為に使用されたのではなく、葬礼の一種としてだよ(魔よけみたいなもん)。
それに、これは貴重な品で・・・、王や豪族など、高貴な、
ごく限られた人物のみに使用されたのであって、ポピュラーていうのは無いねえ。

129 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:19:54.13
卑弥呼なんておなまえはどこにでもいたってふつうかなとわおもふが

130 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:22:15.09
かなりたかいかくりつで

ま韓にはいたっぽいっておもふけどな

131 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:30:27.28
信じ難いけど世の中には卑弥呼ってなまえつけるようなおばかなおやごさんもいたりするんだよな

132 :あらため だよん:2012/02/06(月) 20:32:49.14
107の豚骨の話は、大分県の下郡桑苗遺跡から出土した骨だろうね。
これ、私は大分県の埋蔵文化センターまで行ってこの豚骨を生でみてきたんですが・・・
この豚骨ていうのが顎の部分で、歯をみれば、野生のモノなのか、家畜用なのか
分かるらしく、この遺跡のモノは家畜豚らしいですよ(現地の説明会での話では)。

133 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:48:18.52
>>132
もうぐぐるにひろわれたりしてるよ すごいね

134 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:50:08.57
ちゃった 2011年1月28日 ってかいてあったわ

135 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:54:39.20
焼いて割れ目が入ったのとか無かった?

136 :sss:2012/02/06(月) 21:48:21.07
>>128
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の、始祖王とされる甕棺の中も朱で塗られていて、
剣が副葬されている。弥生中期、恐らく紀元前になるだろう。

この頃から、棺の内部を朱で塗る習慣、剣を副葬する習慣があった。
他の甕棺では鏡が副葬されるケースが多い。中には前漢鏡もあって
その古さがわかる。

例えば、三雲南小路遺跡は、2000年ほど前の弥生中期だが、銅鏡35面、銅鉾2本、
勾玉1個、銅剣、ガラスの璧(へき)8枚、金銅製金具などが出土している。

副葬品は、特定の階級の存在を意味していて、首長の存在も考えられる。
これらは古墳時代に入って古墳の棺にも受け継がれている。

弥生九州と古墳近畿の連続性と言っていい。逆に、弥生近畿に副葬品の習慣は
認められず、階級の存在をうかがわせる習慣も認められない。
銅鐸の存在などは、逆に共同体のような社会構造をうかがわせる。

弥生近畿と古墳近畿の非連続性といっていいかも。

にもかかわらず、畿内説の考古学者は、古墳時代の近畿に九州の影響は全く
認められないと言ったりする。それがどうにも納得できない。

137 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 21:55:23.42
>>127
陳寿は、朝鮮の卑弥呼と、大和の神功皇后を、混同しているのですよ。
婢千人とか男弟…等の描写は、神功皇后の伝説の描写なのですよ、おそらく。

一方、朝貢記事の卑弥呼は、朝鮮の卑弥呼なのです。

それはさておき稗箕狐さんは朝鮮に卑弥呼がいてもおかしくはないと考えているようであり、
これで私の説に興味を持ってくれる人が三人になった。

138 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 21:57:11.27
ばかたれ

139 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/06(月) 22:04:33.28
葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。

卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。
その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。
卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。

あるサイトから拾ってきた記事だが、もしかしてこういうのを畿内説の根拠にしようとしているのだろうか。
こういうのは現在の知見であり、学説なのだから、あまり信用しないほうがいいよ。


140 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:11:02.73
朝鮮人の書き込みの数億倍は信用出来るな。

141 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:12:18.30
>>139
それは畿内説ではなく、九州説の根拠にしかならないだろう。

142 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:18:01.54
国内で最古の水銀朱精製跡が確認されたのは、
紀伊半島吉野の川上にある丹生神社だよ。

もひとつ、宇陀で自然水銀(水銀の状態)が確認された山を、
昔地元では「イワレ山」と呼ぶ、豆な。

143 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:22:49.79
けど随分前から探してたわけだよね?邪馬台国って。
日本書記書いたあたりで九州か畿内探しておけば発見できたろうに。

144 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:29:54.03
日本書記の時点で邪馬台国も卑弥呼も当然わかってるだろう。
でもとぼけただけだな。それは蘇我の血縁に深く関わるからであ〜る。
よって、モモソに子供がいちゃ困る訳だな。わかる奴にはわかる事だよ。
神功?イヨがベースの話だよ、あれは。

145 :あらため だよん:2012/02/06(月) 22:34:38.52
>>136
三雲&スグ遺跡のキャッチフレーズ、2000年前の遺跡だとか、
畿内の墓制は格差が無いだとか、貴方がそれなりに知識があるというのは承知してる。
しかし、私はあいにく、神武東遷説といいますか、邪馬台国自生説ではない。

貴方と一緒で、古は九州から始まるというか・・・
多少なりとも、影響は受けてるんではなかろうか?と思いますよ。

146 :あらため だよん:2012/02/06(月) 22:41:31.27
>再生を願い、死霊を封じるこの風習は

て、朝鮮のやつ〜Wikiでも観たんだぜ〜zz


147 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:43:27.50
朝鮮クンは今頃ネットサーフィン(死後)かな?

148 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 22:45:05.51
「朝鮮」はここにきたやつのなかでも相当に壊れてる一人ではないか

149 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/06(月) 23:21:57.80
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。・・・
部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。
・・・遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。

卑弥呼は朝鮮にいた曰く:「卑弥呼の対戦相手狗奴國とは、2郡である」
で、話は合う。


150 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:26:45.06
景初中 大興師旅 誅淵 又濳軍浮海 收樂浪 帶方之郡

のの山東半島の出発地点は「掖縣」でしょかな

151 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/06(月) 23:34:49.02
>弥生近畿と古墳近畿の非連続性といっていいかも。

たしかに、2世紀末と3世紀中ごろの大和を比較するととてつもない段差とも思える
段差が存在する。
しかし、書記はその段差をしっかり説明しているにもかかわらず、ほとんどだれもそれを信用しない。

崇神は、大和纒向が発展する端緒を飾る天皇であるにもかかわらず
箸墓(最初の大王)で説明しようとする。
これがそもそもの誤りの初めである。


152 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/06(月) 23:43:54.16
帝謂諸將曰:「所以不攻其營,正欲致此,不可失也。」乃縱兵逆擊,大破之,三戰皆捷。賊保襄平,進軍圍之。
公孫氏、文懿は、襄平(遼東半島の北)で最後まで抵抗する。

山東半島から”韓”へ渡ったであろうとは思う。


153 :日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:51:29.21
《書・禹貢》東漸于海,西被于流沙,朔南曁聲ヘ,訖于四海。

《周禮・秋官》伊耆氏。
《註》伊耆,古王者號,始爲蜡,以息老物,此主王者之齒杖,
   後王識伊耆氏之舊コ,而以名官與。
   今姓有伊耆氏。 又國名。

大夫伊聲耆掖邪狗って何者?

154 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 00:00:26.18
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王(男王)の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=景行 になる
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ (ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが) 
彌馬獲支? ヤマワケ?


155 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:14:19.26
うすっぺらのおあそびだね

156 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:18:59.35
唐松には進化の可能性とか無いかもってめもしておこう

157 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 00:21:50.38
>うすっぺらのおあそびだね

考古学と整合させる必要がある。

新羅に合わせれば188年から29年間、後漢に合わせれば189年から28年間。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年

158 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 00:24:36.51
文献と整合させる必要がある。

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。


女王卑弥呼は倭奴國王位継承のカンカシヒメである。
倭王は倭国統一を果たした景行である。


159 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:28:48.37
ホツマ真理教は相手にしません。

160 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:30:06.11
おれももうブラウザからの書き込みやめておきます

161 ::2012/02/07(火) 00:38:55.09
片っ端から古墳をこじ開けて骨が男か女か見極めて、まわりに奴隷の骨が二百体ほどあればそれが卑弥呼だ。なんでそんな簡単な事が出来ない?宮内庁は何が怖いんだ?

162 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 05:29:32.16
唐松も記紀を全く理解出来てない、進歩がない奴w
脳内補完が酷いな。

163 :志紀:2012/02/07(火) 07:36:49.41
ホツマじじいって、自閉的?

164 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 08:00:30.27
光武帝の時代から三国志の時代ってかなり開きあるよね?
邪馬台国ってそんな200年ぐらい続いてたのかな?

165 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 10:02:15.27
>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソww
      ↑
38年の空白は ↓ 無い。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               【続く】

166 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 10:04:58.95
>>165 続き
38年の空白は無くデタラメ論である、

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

167 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 10:17:38.63
太国、ひさびさの登場か

168 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 10:20:46.32
>伊支馬=イクメ=垂仁←日本史板最高級の噴飯節ww

官は天皇には絶対なれない。道鏡もこれでなれなかったわけだ。

官の伊支馬が239年にその官の身分でいて仮にも天皇になれると考えたと
すると、宿主は垂仁が官の伊支馬だというんだから奴の論では239年に
伊支馬たる垂仁が崩御してるわけで、239年に官の身分でしかも同年の
239年に伊支馬の垂仁が死亡したということはだ〜〜奴の言う垂仁の在位

>垂仁 217〜239年

の準末期の238年ではまだ天皇になれずに下の官の身分でいたことになるの
であり、垂仁の在位は239年〜239年となり、ただの1年分だけだという
ことになるわけだ。つまり官でいた239年に天皇になり即位したことを意味
するわけで、217ねん〜238年までは在位せず下の官の身分で
いたことになるのだから、 217年〜239年の在位の主張はデタラメだと
いうことになる。すなわち奴の論では239年時に官から即位し、その年に
もう死亡したことになる。ww

どうだな? 宿主よ。おかしいではないか??ww

頭を冷やすんだな。><

169 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 10:42:13.53
新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年でない]

170 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/07(火) 12:25:58.16
古田の「失われた九州王朝」をやっと読了。
ミネルヴァ書房版なので、巻末に書き下ろしの付録が付いていて、
その中で古田は、金印発見者の甚兵衛が提出した文書に疑いを抱いている。
文書には疑いを抱いているが、金印そのものは本物だと信じているようだ。

古田はまだ甘い。しかし文書に疑問を持ったことは進歩だ。
そのうち金印は偽物であると気付くだろう。

171 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 15:59:35.04
金印や鏡等、持ち運びの出来る出土品は、発掘状況が
はっきりしてる物しか信用しては駄目なのは当然だな。

172 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/07(火) 18:52:46.62
面白い記述発見。雄略紀に、

久麻那利は任那国下タコリ県の別邑なり、とある。

久麻那利は熊津だろう。熊津は忠清南道の光州市。
とすると任那は定説よりずっと北方に在ったことになる。

ということは北緯36°以南の広大な地域が倭の領土だった可能性があるのである。

173 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 19:11:27.95
>北緯36°以南の広大な地域が倭の領土だった可能性があるのである。

遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。
魏・晋時代は、2郡に属す。
神功49年(323年半島は政治的空白地帯となる)。百済軍をさそい半島占拠。百済に領土分与
この分与した領土が今のソウル方面である。

174 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 19:24:58.15
○鮮くんは恥ずかしいから「倭の領土だった」なんてこどもみたいなことゆうのやめたほおがよいよ

「領土」なんてのは近代国家に関して使用可な「学術用語」なんだから

そのあたりのとこわきまえようね

175 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 19:52:54.83

中国大陸は日本古来の領土である

176 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 19:55:14.85
正始六年、楽浪太守劉茂・楽浪太守弓遵、領東の[シ歳]、句麗に属するを以って、師を興し
これを伐つ。不耐侯等、邑を挙げて降る。その八年、闕に詣り朝貢す。詔しさらに不耐[シ
歳]王を拝す。居所民間に雑在し、四時郡に詣り朝謁す。二郡軍征賦調あるに、役使を供給
す、これを遇すること民の如し。

高句麗が2郡に滅ぼされると、その南部の不耐[シ歳]は、2郡に隷属し、「軍征賦調あるに、
役使を供給す」
この勢力はを“百済”と考えた場合、西晋滅亡により路頭に迷う“百済軍”を誘った
ととらえることが出来る。
つまり、百済にとって倭国はこの危機を救い、建国を助けてくれた勢力である。


177 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:04:39.71
>>175
支那って、奴(那)国を支えるって意味だからな

178 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 20:07:43.88
>>168 続き
>垂仁 217〜239年
つまり217年に天皇になり、239年まで宿主の言う官の伊支馬が垂仁で在位
したということなのだから、伊支馬が官の身分でいたのは、217年から
以前だったといことになる。217年になって官から天皇になりえたん
だから、217年を超えて218年以降となれば、天皇の伊支馬は官でないこと
になる。
そうなると217年以前が官で彼はいたんだから、魏という国が建国され
る3年以上昔だったということになるのだ。魏は220年成立だから伊支馬が
垂仁ならば、倭人伝は魏の国ができてない時代のことを書いたということ
になる。ww

そんな馬○なわけがあるまい!ww

宿主よ、しかと返答しろ。

179 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:33:08.84
ほら〜太国のおっさん 負けてるじゃん。

太国 & 唐さんのレス内容を見比べるかぎり
どっちが知識が豊富(内容が濃いか)皆さんに聞いてごらんよ。


180 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:39:07.47
なんで宿主なん?

181 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:44:05.37
ていうか、俺も人の事言えてないか><w

じゃあ、ローガン、ジョーカー、人豚、sss(恨み節)辺りに
負けないように頑張らないといけないねw ていうか最近負けてるかもww

182 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:55:48.71
↓ ほら、朝鮮、言い返せ!!

>○鮮くんは恥ずかしいから「倭の領土だった」なんてこどもみたいなことゆうのやめたほおがよいよ


183 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:56:24.56
>>181
>sss(恨み節)

全くの別人だから

184 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 20:56:47.94
>伊支馬が官の身分でいたのは、

魏志倭人伝にそのような記述が存在するのか?
倭人伝には、魏が認識する”官”に伊支馬が存在した。
それ以上のものではない。



185 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 20:59:27.79
>>165
>景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現

これが正しいことを太国は証明しなければ、太国倍年は存在できない。


186 :志紀:2012/02/07(火) 21:06:11.51
>>181
お前訴えるぞマジで。コテもない癖にうっとーしー。
警告はここまでだ。

187 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:13:31.26
>>186 式
>お前訴えるぞマジで。

そんなにしょっちゅうヒステリー起こすなら
2ちゃんなんか止めた方がいいぞ爺さんw



188 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/07(火) 21:16:54.10
>>182
いや、べつに腹は立たないからどうでもいいのだw

たぶん174は稗箕狐だろう。彼は意外とよく勉強している、意味不明な文が多いのは玉に瑕だがw

189 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:21:31.97
>>188
いや、腹が立つ、立たないの問題では無い。
議論してぶつかり合い、
いかに上にのし上がるかだけを考えろ(相手を蹴落とせーーーーーーーーーw)


190 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:25:07.60
なんで メ は名無しなん?

191 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:25:45.10
○鮮くんはそれなりに学習能力はありそうだから教育的指導さしあげただけですよ

192 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:40:47.76
太国&唐さん の二人なんか
ケージデスマッチみたいなもんでw あははは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Steel_Cage_Match_-_Angle_vs_Cena.jpg


193 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 21:44:49.64
邪馬台国よりもっと金になる研究しろよ。

194 :日本@名無史さん:2012/02/07(火) 22:11:36.34
日本国籍の金さんの嫁になるか婿に入れば「金になります」。以上研究終了。

195 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 22:26:43.22
>景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現

これが正しくないことを宿主は証明しなければ、宿主空年は存在できない。



196 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 22:35:52.17
>>184
意味不明 pupupuppp・・・

答えになってないぜ。ww

197 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 22:44:01.83
古今東西、古代南バビロニアの2倍年暦行使をはじめとして、古代マヤの
太陰暦等々かなり2倍年暦は、はやっていた。倍暦は存在するが、空年は
存在しない。しいて言えば西暦0年と宿主の盲象脳内だけである。ww


皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位元年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92     紀の崇神6年 鏡作神社 鏡改鋳
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年←近接↑整合
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社 戊寅七年←神社の由緒に存在
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年




198 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 22:48:38.48
>景行 240〜261年(38年の空白)

これが正しいことを宿主は証明しなければ、宿主空年は存在できない。


199 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/07(火) 23:01:02.59
>>196
>答えになってないぜ。ww

太国は、景行紀に60回の春夏秋冬が実在すると主張するんだろ?


200 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 00:36:47.12
映画『まぼろしの邪馬台国』

郷里である島原を愛し続け、昭和40年代の日本に邪馬台国ブームをもたらした著書『まぼろしの邪馬台国』の
筆者である盲目の郷土史研究家・宮崎康平とその妻・和子の絆を描く感動ドラマ。
盲目の夫を支え続けた宮崎和子を演じるのは、日本を代表する映画女優・吉永小百合。
偶然発見した土器から、邪馬台国を探し出すことへの執念を燃やす宮崎康平には、個性派俳優・竹中直人。
脚本はNHK大河ドラマ『功名が辻』の大石静、監督は『20世紀少年』シリーズ、『明日の記憶』の堤幸彦。
九州の美しい大自然を背景に描く、太古のロマンを追い求めた夫婦の愛の物語を堪能したい。
http://www.toei.co.jp/movie/details/1174252_951.html
http://ichigo-up.com/cgi/up/qqq/nm48176.jpg

201 :稗箕狐:2012/02/08(水) 01:02:58.89
韓で逆らったひとのお名前がありました 韓那奚

(正始)四年(243) 冬十二月 倭國女王俾彌呼遣使奉獻
(正始)七年(247) 春二月 幽州刺史毋丘儉討高句驪、
          夏五月 討濊貊 皆破之 韓那奚等數十國各率種落降


正始六年(245)  樂浪太守劉茂 帶方太守弓遵 以領東濊屬句麗興師伐之
           不耐侯等舉邑降
  其八年(247) 詣闕朝貢詔更拜不耐濊王
           居處雜在民間 四時詣郡朝謁 二郡有軍征賦調 供給役使 遇之如民
(正始)八年(247) 太守王頎到官

202 :ごめん:2012/02/08(水) 01:06:54.90
× (正始)七年(247)
○ (正始)七年(246)

203 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 01:29:40.91
不耐濊王 は、民間に雑居し、何時も郡に詣で、軍事行動のあるときには
役使を税(賦調)として供給し、民の如くである。

この時点で、卑弥呼は半島に存在できない。
また、崇神による任那建国も不可能である。


204 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 01:32:48.68
>2倍年暦は、はやっていた。

書記は春夏秋冬を各3ケ月で説明している。
だから、倍年は存在しない。


205 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 01:52:20.74
ホツマ真理教は、オカルト板でやってください。

206 :メ(ロウリュウサービス):2012/02/08(水) 02:07:11.43
>映画『まぼろしの邪馬台国』

これは映画館に観に行ってきましたよ
邪馬台国がどうのていうよりも、夫婦二人三脚みたいな
ストーリー的な部分のほうが面白かったです。


207 ::2012/02/08(水) 02:36:42.52
邪馬台国時代は"文字の無かった時代"なんて言われてるんですが、
倭人伝の方に「詔書」に対する「上表」をみても分かる通り、
倭の指導者は文字を理解し、使ってたことが分かる。

たとえば、古い時代の『文字』でいいますと、古墳時代の木簡に、
箸墓周辺からみつかった「市」字がみえるモノがあったりするんですが、
それより前の「邪馬台国時代」、
すなわち、3世紀後半の福岡県前原市三雲遺跡出土、甕棺に
「竟(鏡)」の刻書土器 というものがある。
http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/shogaigakushusupotsuka/article.php?articleid=112

三重県大城遺跡の刻書土器とともに、倭人の書いた"最古の文字"と言われてるんだが、
私はこの「竟(鏡)」の刻書土器を観る為に、年始に九州国立博物館の方へ行って参りました。

あと〜神代文字なんかは古いんでしょうが、
あれは、いつの時代に書かれたか不明だよねえ。

208 ::2012/02/08(水) 03:00:11.40
あと、「親魏倭王」印の出土が邪馬台国論争に終止符を討つとかよく耳にするねえ・・・
この金印は宗女壹(臺)與が大陸のサッ封を受けた段階で、皇帝に返却した可能性も無いことは無いが
三国志王凌伝に、印綬を墓葬の際に一緒に土の中に埋めた例があるので、
卑弥呼の墓とともに金印も埋葬されてる可能性が高いと思う。

209 ::2012/02/08(水) 03:02:14.33
↓ここの

>三少帝紀齊王
>(正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-hongi.html

について、誰かコメント宜しく〜☆ではねるzzzzzzzzzzzz

210 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 08:38:07.49
神代文字っていつの時代なんだろうね。
結局は、あいうえお と同じような使い方だったのだろうか。
ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~choreki/sinmoji.htm

211 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 10:51:25.67
>書記は春夏秋冬を各3ケ月で説明している。

2倍年暦等を知らぬ紀の編者らは、官僚形式の書き方に季語をつけるのが慣習
だったから、春夏秋冬の語を後付けしたものである。
その氷山の一角に浮かび出たのが、雄略4年の紀と大成経の2月と8月の季語の
相違である。だから雄略の代に2倍年暦が存在してたわけで、記紀双方の雄略の
寿命は片方の丁度2倍になっておる。空年なんぞ、今回書きこみの景行と以前
書きこんだ成務の両年表から自明である。ww

紀の多数の原書にはこの季語のついてない書もけっこうあったはずで、それが
紀の神武以降の文のその殆どに各文の冒頭に季語がついてるんだから、後から
季語のない原書の各文を紀に載せる際、これを後付けしたということである。

オマエが秀魔電を紀の原書だと言い張るなら、秀魔伝の各文の冒頭に春夏秋冬の
ついてないのが多々あるんだから、オマエの言い分では、これでは秀魔電は紀の
原書でないこととなる。ww

212 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 13:30:37.48
ほつまなんとかって、
結構ファンが多いんだろうね?


213 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 14:39:48.54
>書記は春夏秋冬を各3ケ月で説明している。

え?まじで?


214 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 15:11:58.59
>書記は春夏秋冬を各3ケ月で説明している。

書紀は当時の皇統在位を単独在位で説明している。

精神病院ご歓迎噴飯論→五重在位なんぞ紀は否定している。

215 ::2012/02/08(水) 16:18:01.47
>吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の、始祖王とされる甕棺の中も朱で塗られていて、
>剣が副葬されている。弥生中期、恐らく紀元前になるだろう。
>この頃から、棺の内部を朱で塗る習慣、剣を副葬する習慣があった。
>他の甕棺では鏡が副葬されるケースが多い。中には前漢鏡もあって
>その古さがわかる。

考古学の良いネタが出てるので拾うか・・・
吉野ヶ里でみられる首長墓は近畿へ受け継がれるというか
古は九州から始まると思っている。
吉野ヶ里以外にもスグ遺跡のD地点のやつなんか、
中国の皇帝から厚遇されたと思われる痕跡を残してるし、この時代の
日本列島の中心地といえば、間違いなく北部九州だろうね。

216 ::2012/02/08(水) 16:25:04.44
>例えば、三雲南小路遺跡は、2000年ほど前の弥生中期だが、銅鏡35面、銅鉾2本、
>勾玉1個、銅剣、ガラスの璧(へき)8枚、金銅製金具などが出土している。
>副葬品は、特定の階級の存在を意味していて、首長の存在も考えられる。
>これらは古墳時代に入って古墳の棺にも受け継がれている。
>弥生九州と古墳近畿の連続性と言っていい。逆に、弥生近畿に副葬品の習慣は
>認められず、階級の存在をうかがわせる習慣も認められない。
>銅鐸の存在などは、逆に共同体のような社会構造をうかがわせる。
>弥生近畿と古墳近畿の非連続性といっていいかも。
>にもかかわらず、畿内説の考古学者は、古墳時代の近畿に九州の影響は全く
>認められないと言ったりする。それがどうにも納得できない。

弥生〜古墳時代にかけての近畿の非連続性、また 近畿に九州の影響うんぬん、
九州と近畿は大陸から文化を受けたのであり共通してる部分はおおいんじゃなかろうか。


217 ::2012/02/08(水) 16:31:14.20
弥生時代の平原遺跡がなぜ被葬者は男性ではなく、巫女的な要素を持った
女王と言われてるかについては、副葬品のなかにジトウ【珥璫】といわれる耳飾りが発見されており
これは、その当時、中国の貴婦人の間で流行した品物なので、ここから来てる部分が多いと思う。
あと他の副葬品、赤い管たまなんかも見てもらいとわかるが、そういう女性ものらしき物を多く含むからねえ。


218 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 18:09:16.02
>雄略4年の紀と大成経の2月と8月の季語の相違である。

2月は春で、8月は秋だろ?
季語に相違はない。


219 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 18:10:49.08
この寒波で九州、博多でも連日雪が降ってますね。

一方、奈良では全然雪など降っていません。

「倭地温暖」という魏志倭人伝の記述にぴったりするのは、九州ではなく、奈良ということが
証明されましたね。



220 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 18:15:12.17
築山古墳とかが気になるけどな

名前が名前だけにさ

221 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 18:38:13.57
倭人伝の気候風俗記事は、卑弥呼朝貢記事とは無関係だと思われるので、
気候風俗記事は推理の材料にはならないでしょう。

ですから、たとえば、気候風俗記事を理由に、東北説はあり得ない、とは言えないわけです。

222 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 18:44:12.88
民俗描写はその国家のルーツ性血統を示すのに重要な要素。北方ツーングース系を南方系に偽装する事は在るだろなw

223 ::2012/02/08(水) 19:00:52.68
平原遺跡の被葬者は男性なのか?女性なのか?
興味有る人は自分で調べてみるとよい。
まあ、女性で間違いないんですが、ジトウ【珥璫】てどういう耳飾り?
て思う人も居るかもしれない。

て言うか、この中で平原遺跡まで行ったことのある人はどれぐらい居るんだろうね?
私はもちろん行って来てるが、知らんしとの為に〜ドーガ貼りつけるよん

http://www.youtube.com/watch?v=XR3Dzxqpfh4

224 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:03:18.49
>>219

奈良が暖かいんじゃなくて、冬の降水量が少ないだけ。
奈良県は寒すぎて、かんきつ類がほとんど採れないが、
九州は暖かいから、バンバン採れる。

225 ::2012/02/08(水) 19:13:10.15
>>221 朝鮮

倭人伝のほうに
邪馬壹(臺)國、女王の都する所なり・・・水行十日、陸行一月

という記事があるんだけど、この女王の都する所なりていうのは深い意味があり、
そのあとの記事、

郡より女王國に至るには万二千余里 とあると思うんですが、
あきらかに、邪馬壹(臺)國を「女王国」と言ってるんです。

これは、魏のサッ封を受ける前でして、サッ封後は
今汝を以て親魏倭王となす・・・ という記事語は、倭女王、倭王という呼び方で語られる。

女王は朝鮮半島に居たという解釈はトンデモ読みの一種でして、
普通に考えて、女王は女王国に居た、すなわち邪馬台国に居たて言うのが当たり前でしょうな。

226 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:19:02.18
>>225 ドツボ
>サッ封

おいおいおいおいおいw

「さつほう」なら漢字を呼び出す為にそう打ったと理解もできるが「さっほう」「さっぽう」か?w



227 :志紀:2012/02/08(水) 19:22:44.36
>>219
あんた奈良県民やないやろw
奈良は冬めっちゃ寒いねんで!

228 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:24:20.77
>>224

桃はたくさんとれるよ。

229 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:28:00.12
めさんめさん

土地勘ありそうだからちょっと質問

「生の松原」ってなんなの?

230 ::2012/02/08(水) 19:29:25.21
>>226
あ、ごめんごめん
たまに、私の認識不足による間違い(とくに漢字><)があるので、
多少のことはご勘弁願いたい。訂正します〜

冊封(さくほう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

231 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:29:33.25
単純に気候条件は宮崎なのよ。山の裏で天気も良い。

232 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:32:48.03
生の松原、って言ったら、今宿から福岡にちょっと行ったとこと言うか、
長垂海岸のとこやろ

233 ::2012/02/08(水) 19:33:17.67
>>229
>「生の松原」ってなんなの?

生で観た、魏使氏が通ったと推測される佐賀県唐津市の海岸沿い
「虹の松原」ではないんですか? しらんけど

234 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:33:52.12
虹の松原は唐津の方やね

235 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:36:29.97
なまのまつばら
おいのまつばら かなっておもったら

いきのまつばら で読みの指定うけてるみたいね

236 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:38:05.93
ふつうだと

姪浜とかとなりにあるから

おいのまつばらかもっておもうよな

237 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:40:19.50
始めっから、いきのまつばら、って子供の時から
聞いとるけん、他の読み方は考えんかったねえ。

238 ::2012/02/08(水) 19:41:51.66
たとえばですね。
水行をわたしはPCで打つ場合、「すいぎょう」と入力するんですが、
正確に言うと「すいこう」と読むらしいです。

豊国にしてもそうですが、豊前のブなので、ブコクなんて読んだら笑われます。
正確には、「豊国」と書いて、トヨノクニと発言する。

もう一点、宇佐八幡を(う)(さ)(や)(は)(た)と読むとしよう。
古代史を知ってる人には通じるんですが、現地に行って「やはたー」なんて行ったら笑われるw
正確には、ウサハチマン、ウサハツマンでいいと思う(仏教的だが)。

239 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:42:00.51
これって地名の読みが汚染されているのかもって直感したよ

240 :志紀:2012/02/08(水) 19:43:00.59
いき=壱岐
かな?
古代史板的には勘繰りたくなるw

241 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:46:18.83
唐津が、「唐」への津、みたいに、
生の松原が、壱岐に行く航路とか?

242 ::2012/02/08(水) 19:50:21.55
これだよ

虹の松原
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%8E%9F

ここを車で通ったら分かるんだが松の木がすんげえ〜あるw

243 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:50:25.67
筑紫国連合体が、博多湾や糸島を大陸の窓口にしているように、
肥国連合体が、唐津を窓口にしていたと思わなくもない。

やっぱり、他国の勢力圏を借りるのは色々と面倒。

244 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:50:35.68
ここって周船寺から短里で100里の地点で

もとのがおれの不彌國の比定地なんだけど

もすかして

「生の松原」は

「うみのまつばら」なのではないかとおもふぞ

            でっ もとのが

「ふみのまつばら」

245 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:51:54.02
生の松原は地下鉄と言うか、筑肥線にのるとよく見える。

246 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:53:52.66
生の松原から、ちょい福岡側が、小戸港

筑紫の日向の立花の小戸の阿波岐原に……

247 :稗箕狐:2012/02/08(水) 19:56:22.10
山門もごろごろで良いかとおもふぞ

248 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:56:52.61
生きの松原は、神功皇后が松の枝を逆さにして戦勝を占ったところ。
その枝が生きて栄えたところから生きの松原と名づけられたと伝えられている。
壱岐神社があり祭神は壱岐直真根子である。 日本書紀は、竹内宿禰の身代わりとなって宿禰の冤罪を晴らした人物と記す。

249 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:57:39.70
筑肥線 下山門駅もこのへんやね。

250 :稗箕狐:2012/02/08(水) 20:00:57.54
邪馬のドアじゃに

251 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 20:08:35.89
>>226
冊封使は「さっぽうし」とも読むから間違ったんじゃないの

252 ::2012/02/08(水) 20:08:38.83
>>248
へえ〜あんた良く知ってるね・・・
いま、生の松原で検索したんだが、福岡県福岡市西区?

生の松原 ていう海水浴場があるらしい。
ttp://www.empire-mansion.com/fukuoka/18/index.php

253 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 20:10:10.41
>2月は春で、8月は秋だろ?
>季語に相違はない。

同一出来事で春と夏が同一なわけがなかろうが・・・。

ここの紀と経とはは別々の出来事の記事ではないぞ。><

オマエは精神病院に駆けつけて診てもらうんだな。

254 :稗箕狐:2012/02/08(水) 20:10:46.40
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.31885416518&latitude=33.535838340993

「都地」なんて地名が生き残っていたりするのね

255 ::2012/02/08(水) 20:11:53.03
>冊封使は「さっぽうし」とも読むから間違ったんじゃないの

251さん、ナイスフォロー (≧∇≦) =3 ホッ

256 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 20:13:19.09
唐の松山??
 奴は半島人か??

257 ::2012/02/08(水) 20:19:30.49
馬鹿だな〜何言ってんだか

高い空港権を買って、ジェット機に乗って「古代史の旅」というか、
現地に赴くんだよ。
私のレスは、無限教みたいに、安く無いんだぜよwwww

258 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 20:57:33.01
>同一出来事で春と夏が同一なわけがなかろうが・・・。

だろ?春2月が秋8月であるわけがない。
であるならば、どちらかの記事に誤りがある。


259 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 21:39:03.48
>>225
メ君に教えられなくても、女王が邪馬台国にいたことくらいは分かるw

その女王は卑弥呼ではなく神功皇后ですよ。邪馬台国は大和。

それとは別に朝鮮に倭国があり、卑弥呼はその倭国のどこかの国にいたのですよ。

分かるかな〜、分んねえだろうな〜、メ君の頭ではwww

260 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:42:31.10
>>219 バカじゃないのか? 韓国や中国に比べればずっと温暖だぞ。

261 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:56:34.19
長江文明、つまり、「三星堆文化」が滅んだのは、黄河文明からの侵入者の影響と言うより、地球寒冷化だったのではないだろうか?
そのために、もっと温暖な気候の地域を求め南下した。
しかし、揚子江の河口地域も安住の地ではなく、
海人の手助けを借りて日本列島に移り住んだのだろう。


262 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:09:05.47
>>228

桃は寒いところで採れる。長野・福島・山形などね。

263 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 22:23:59.65
>であるならば、どちらかの記事に誤りがある。

つまり2倍年暦を古代南バビロニア、古代マヤと同様に2倍暦を行使して
いたからで、 > は

 であるならば、宿主の考えに誤りがある。

これが正解だ〜。ww

既出の成務、景行年表を見れば、空年が 19×n年 での状態で存在して
いないということが自明だからな。ww

264 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:25:46.35
>>261
その通り!
文明の勃興の原因は主に気球規模の気象変動だろう。


265 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:25:57.20
>>263
どういうことですか?

266 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:34:40.96
太国も最近、倍歴、3倍歴とはさっぱり言わなくなったな。
悪い夢でも見ていたのだろう。よくなってよかった。

267 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 22:40:08.57
>古代南バビロニア、古代マヤと同様に2倍暦を行使して

それで、これを書記の太陰暦を使用して証明してくれ。


268 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 22:50:47.01
>>265
当時の天皇の寿命が著しく逸脱して長いのは、朝廷が2倍年暦等を行使
していたからで、紀の春夏秋冬の季語は紀の編者らの官僚形式文に則って
の後つけがかなりあるということです。

紀の神武以降の文はその殆どが各冒頭の文に年月日のところにこの季語が
殆どにわたりついてるわけで、これが紀の原書からの後つけ語だという
ことですよ。

その文証、その氷山の一角が、紀と大成経の雄略4年の同出来事記事の
月と季語が春2月(紀)と秋8月(経)で、丁度半年の違いがあるという
もので、かつ記紀は雄略の寿命が124歳と62歳で記は紀の丁度2倍だという
ことがさらに2倍年暦を当時行使していたという補強証拠になっています。

やさらに少し先代の允恭の治世の允恭24年6月に「御膳の汁が凍る」という
出来事があり、これも2倍年暦の可能性が濃厚になるべき文だと観るべき
文ですね。6月が12月だとなれば合点がいきます。かたや空年とやらは、
既出の成務、景行の年表から間違い説だと軽くわかります。

269 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 23:08:06.98
>当時の天皇の寿命が著しく逸脱して長いのは、朝廷が2倍年暦等を行使していたからで、

べつに、2倍年暦等を行使せずとも治世を引き延ばす方法が存在する。
そのなかで、”2倍年暦等”に固執するのであれば、”2倍年暦等”の1年の長さから分析する必要がある。

で、”2倍年暦等”の1年の長さから説明してくれ。
たとえば、当時の朝廷とは1年=365日という基準さえ知らない無知のあつまりであった、とか。


270 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 23:13:09.58
>春2月(紀)と秋8月(経)で、丁度半年の違いがあるという

ここから得られる2倍年とは、春秋暦であり、太国の主張する2倍年であるという
結論は得られない。


271 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:14:31.82
>で、”2倍年暦等”の1年の長さから説明してくれ。

また1円玉を数えろというのか??

オマエは真性か〜??


272 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:17:00.59
>ここから得られる2倍年とは、春秋暦であり、太国の主張する2倍年であるという
結論は得られない。

宿主の主張する空年であるという結論はそれ以上にさらに得られない。


273 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/08(水) 23:19:06.90
>允恭24年6月に「御膳の汁が凍る」という出来事があり、

二十四年夏六月。御膳羹汁凝以作氷。
うそはドロボウのはじまり。


274 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:22:01.34
空年であるという主張は ↓ それ以上にさらに得られない。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山 近江 竹生島と同じく発現
景行11年 高瀬神社(富山県南砺市)この年 鎮座
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               【続く】

275 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:23:45.60

>>274 続き
【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

276 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:25:59.61
>二十四年夏六月。御膳羹汁凝以作氷。

オマエ真性かも知れんぞ???

即精神病院へ行け。それがいいよ。


277 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:38:15.07
>>264 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:25:46.35
>>261
>その通り!
>文明の勃興の原因は主に気球規模の気象変動だろう。

気球規模とは深いですな。普通は気候変動と言われるのに気象変動とは深いですな。


278 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 23:38:43.94
>>古代南バビロニア、古代マヤと同様に2倍暦を行使して

>それで、これを書記の太陰暦を使用して証明してくれ。

オマエが南バビロニアとマヤの退院歴に空年を使用したというのを証明
してくれ。

279 ::2012/02/09(木) 00:10:49.09
伊作さん
こっち来ないかな?

魏使か?郡使か?については、
倭人伝に「裝封付帶方太守假授汝」とあるとおり、その使節は帯方郡を指名している。
これは、魏使は、魏使なんですが、郡使というか・・・
ここらへん、私と伊作とで考え方に違いが生じている。
又、

今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直

という記事があると思うんだが、この品物については魏使が直接に渡したであろうことが予想できる。
魏使&郡使が倭の地に来て卑弥呼のいる所までやってきたんですが、
親魏倭王の任命は、魏の皇帝がしたんですが、直接に皇帝が赴くわけにはいかないので、
倭人伝が示すように魏使ではなく、帯方郡を任命している。
ここらへんいついて答えて貰おうか。

280 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 00:15:17.24
伊作に世辞を言って、あるいは論争をしかけてスレ伸ばしをねらう
プロ固定の醜い手法がここに

281 ::2012/02/09(木) 00:23:14.68
>>280
いや、いや、プロ固定ってw
私もジョーカー氏もそんなんじゃないよ。
私は、ドンコイにも、終止符スレにもどちらにも書き込むが、
どっちかというと、昔っから、ここを専門にしてるんであって(君は知らないだろうけど・・・)
あまり、自分の専門にしてるところ以外でレスをするのはもったいな〜とw
感じるんですわ。
あ、でもここじゃなくてもいいですよ、それほどこだわってるわけではないので・・・

282 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 08:22:07.83
ほんと邪馬台国スレはどいつもこいつもオタ臭いキモい奴らばかりだな。

283 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 10:48:15.84
日本で倍歴が使われた証拠はない
故に妄想である

あ、魏志倭人伝は証拠にならないからな

はい論破(笑)


284 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 11:16:38.49
当時の2倍年暦等行使の文証
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】

1日 0  11日 0  21日 0
2日 1  12日 0  22日 0
3日 0  13日 0  23日 0
4日 0  14日 0  24日 0
5日 1  15日 0  25日 0
6日 1  16日 0  26日 0
7日 0  17日 0  27日 0
8日 2  18日 0  28日 0
9日 2  19日 0  29日 0
10日 1  20日 0  30日 0

上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということなのだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがあるまい。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたということなのである。

前表は1日〜14日まで、後表は1日〜10日までと整然としている。

285 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 11:21:59.30
>>284 続き
以下の欠史八代の場合の日数統計が月前半に全部在るのはどういうことなのか? 
これは八代当時〜、2倍年暦を行使していた文証です。当時は1ヶ月が
1日〜14日までの2週間しかなかったということをこの数字は確実に教えてくれる。

【日本書紀の欠史八代の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


とりわけ末となる14日が最大数の7ということは、当時14日までという14数を
重視し、未来に教示させたものと観ていいと想える。

286 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 11:39:20.75
>>268 :太国
らに少し先代の允恭の治世の允恭24年6月に「御膳の汁が凍る」という出来事があり、

>>276:太国
>二十四年夏六月。御膳羹汁凝以作氷。
オマエ真性かも知れんぞ??? 即精神病院へ行け。それがいいよ。

太国が他人を誹謗中傷しても、自説の説明になっていない。
允恭24年の記事は“氷室”の始まりを意味する出来事であり、
夏6月を冬で説明しようとしているだけであり、整合性は無い。
太国倍年の1年は何日なんだ?


287 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 11:42:56.18
>>276:太国
>二十四年夏六月。御膳羹汁凝以作氷。

2倍年暦があれば、「夏六月」と、共に、「冬六月」という記述もなければならないが、それが無いということは、
2倍年暦が無かったという証明である。

はい、論破。


288 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 12:02:59.82
“朔”を数字に直すと。
開化天皇元年正月庚午朔癸酉、192487  ←この数字に他意はない。
崇神元年正月壬午朔     214399  68年=24835日=841ケ月
垂仁元年春正月,丁丑朔    239234  99年=36529日=1237ケ月
同 冬十二月,癸卯朔壬子   275380  
景行元年1月朔(推定)丙寅朔 275763  60年=21941日=743ケ月
成務元年春正月,甲申朔戊子  297321  61年=22266日=754ケ月
仲哀元年春正月庚寅朔庚子  319587  

書記は上記の日数と月数で書かれている。
つまり、倍数で1年の日数や月数を得ることはできない。


289 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 12:37:03.31
太陰暦は、1章=6940日=235ケ月が基本である。つまり、この倍数を差し引いても太陰
暦に大きな齟齬は出ない。1日程度の誤差は出る。
崇神世 68年=24835日=841ケ月 −2章(38年)=30年 (開化と同じ暦)
垂仁世 99年=36529日=1237ケ月 −4章(76年)=23年
景行世 60年=21941日=743ケ月 −2章(38年)=22年

書記の“年度”は信じなくとも、月と季節を書き換える必要は無い。“正朔”である。


290 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 12:56:03.80
訂正
○ 垂仁元年春正月,丁丑朔    239234  99年=36175日=1225ケ月
○ 景行元年1月朔(推定)丙寅朔 275409  


291 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 14:29:00.11
「卑弥呼は公孫氏!」

皆さん、こんにちは! 飯山一郎です。
きょうは、約束どおり、「卑弥呼は公孫氏!」について講釈します。

【講釈/こうしゃく】 文章の意味や物事の由来などを分かりやすく説明して聞かせること。
さて…、
卑弥呼は公孫氏である! …と書いたのは、中国の公的な歴史書(正史)『晉書』。
『晉書』の「卷九十七列傳第六十七 四夷倭人」
にチャンと書いてある。これは、上のリンク(下線)をクリックすればチャンと読める。
こんなふうに書いてある。

人多壽百年或八九十 國多婦女不淫不妬无爭訟
犯輕罪者没其妻孥重者族滅其家 舊以男子爲主
漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見
(之=ツー 平=ピン 也=イエ)
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至
泰始初遣使重譯入貢
(之=ツー 平=ピン 也=イエ)とあるのは…、
昔、私が中国語の発音を勉強していた頃の名残(なごり)だ。
赤字の部分を翻訳すると…、
「漢の末、倭人亂れ攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王と爲す。
名を彌呼と曰う。宣帝の平ぐる公孫氏也。其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。」
となる。
----
だって。

http://grnba.secret.jp/iiyama/hukainazo.html
の◆2011/02/09(水) 金王朝の “深い深い謎” −72−

292 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 14:45:42.97
宿主よ
オマエはマルチ・コテをやらかすのか?
自分で自分の援軍造りか〜?ww

編年にオマエの言う退院歴でやろうと神武の勅にオマエが逆らう太陽暦で
やろうと、年代は大して変わらない。
このことはオマエをせせら笑っていた美濃もん太氏もこの件においては
ほぼコチラと同意見だ。ww

オマエのは、銀行強盗が現場で万札束しか関心のないところ、オマエは
ここで1円玉がどのこうの数えろと言う強盗の○ぬけな手下同然であり、
すーぐケーサツに捕まる○鹿の所業だ。ww
地球上から火星を見るに望遠鏡を使うところ顕微鏡で見てみろと○ンマな
ことを言うも同然のオマエの脳内だ〜。pp

編年には退院歴、太陽暦は原則として考察する必要はない。

293 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 14:47:11.78
>開化天皇元年正月庚午朔癸酉、192487←この数字1円玉の数え方そのもの


294 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 15:07:05.61
>書記は上記の日数と月数で書かれている。
>つまり、倍数で1年の日数や月数を得ることはできない。

書かれていようと、途中日数分断等暦の変更がかいま観られ、その数字は
参考にしかならない。おまけに日蝕が数日間続く計算をしてる奴の数字
なんか、不正行為が充分考えられ、信用はまるで無い。

暦変更なんか去年と今年でも太平洋の某島で行われており、こういうこと
から日数の食い違いは2千年も続けば、かなりやってたろうから、そんな
1円玉数は全く権威が無い。

すなわち宿主空年はオマエの単純脳内からの盲象〜虚像そのもの。

295 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 18:25:02.94
>>291
それは、宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王遣使して帶方に至り朝見す、と読むのが正しいのです、たぶん。

いずにしろ、卑弥呼は朝鮮にいたということが、やがてあなたにも分かるでしょう。


296 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 19:12:50.67
>書かれていようと、途中日数分断等暦の変更がかいま観られ、その数字は参考にしかならない。

だから、出来事を考古学や文献で証明する必要がある。
文献と考古学を否定する太国倍年ではその証明ができない=何の根拠もない。


297 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 19:19:21.07
オマエ、そういう分断が全く無く、2000年も永続してたと考えてるのか?

考えが甘いぞ。欠史八代日数統計表を眺めても、日数の欠がすごい。
これ自体で断裂の証拠になっている。
文献を否定してるのは〜特に書紀を否定してるのはオマエなんだよ。

五重在位だとかの文献があるのか?
オマエのひどい脳内だけだろうが?ww

考古は十年数十年たてばまたクルクル変わる。
論説も明解できない考古の威を借りるキツネがオマエだよ。

298 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 20:32:35.74
>考古は十年数十年たてばまたクルクル変わる。

文献は不動である。
だから、考古学の数字を文献で固定することが出来る。
崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年
崇神11年異俗多帰=2世紀末
崇神世 任那建国=新羅209年=三国遺事211年
2世紀前半の大型建物に古韓尺が使われる(任那より朝貢)

崇神世の任那建国は、210年ころの事実である。
この任那建国を240年ころ(韓ついに滅ぶ)以降に設定してもそのような事実は存在しない。


299 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 21:32:05.30
>欠史八代日数統計表を眺めても、日数の欠がすごい。これ自体で断裂の証拠になっている。

孝霊天皇元年(辛未前二九〇)正月己卯(十二)》元年春正月壬辰朔癸卯。
書記は、”壬辰朔”で新月をその月の1日であると主張し、干支の日数で空白が無いと主張している。
つまり、太国が主張する10日間をひと月とするような編年は存在しない。
だから、太国も10日間のひと月を主張してもその主張を1年に反映させることが出来ていない。


300 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 21:33:50.81
天皇は宇宙人の子孫だから、当初はすごい長寿だった。その名残が源氏長者の宇宙印。
しかし、どんどん人類との同化が進み、寿命は人類と変わらなくなってしまったのです。
武内宿禰あたりが長寿の限界かな。
岩船が故障して世界御幸もできなくなってしまったし。

301 :志紀:2012/02/09(木) 21:35:57.09
そうかもなw

ニギハヤヒの天の磐船の降臨地は「星田」、「天の川」

302 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 21:51:05.63
そして、前方後円墳とは、その磐船の形だろう?
石室への入り口なんかそっくり。

303 :sss:2012/02/09(木) 21:57:46.34
>>300
よくテレビドラマなんかに出てくる淀君の妹の「お江」。
あの人は、ずいぶん長生きのような印象がある。

織田信長の姪で浅井長政の娘として生まれた。
柴田勝家の娘になり、豊臣秀吉の庇護を受ける。
徳川家康の時代を経て、二代将軍・秀忠の妻になる。
三代将軍・家光の母でもある。

しかし、それほど長生きというわけでもなくて享年は53歳くらい。
これで、信長、秀吉、家康、秀忠、家光などの時代を生きている。

武内宿禰も、古事記なんかによると景行、成務、仲哀、神功皇后、応神、
仁徳と経ているらしいが、以外にちょっと長生きしただけの人なのかもしれない。
武内宿禰が実在の人物の反映だとしたら、景行天皇から仁徳天皇までの期間は
それほど長くなかったという考えをすることも可能だと思う。

304 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:11:17.84
>>303
>それほど長くなかったという考えをすることも可能だと思う。

それなら、畿内説も可能だろう。

否定しないよな?


305 :あらため:2012/02/09(木) 22:12:46.36
>>303

300は「竹内文書」のことをいってるんですよ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%96%87%E6%9B%B8


306 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:14:22.49
息子も孫も曾孫も玄孫も来孫も昆孫も仍孫も雲孫もみんな武内宿禰なんじゃないのか

307 :sss:2012/02/09(木) 22:26:37.39
>>304
それは否定する。

308 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:30:04.64
2代目、3代目武内宿禰、市川海老蔵、木村庄之助、林家正蔵というのはあるかもしれないですね。



309 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 22:34:18.01
だから、考古学の数字を文献で固定することが出来る場合がある。
崇神5,6年≠新羅192,3年=後漢193年

飢饉災害で、畿内から千人もの農民が日本海の荒波を越えられると
思ったら大甘だ。ww オマエは末期らしいな?
だいぶひどいな。ww

崇神世の任那建国は、210年ころの事実であるとは断定は無理だ。
この任那建国を240年ころ(韓ついに滅ぶ)以降に設定してもそのような事実は存在
しうる。半島文献は紀と120年等に大揺れする。これは確定が現今に
しられている文献では確定が無理だということを意味している。

書記は、”壬辰朔”で新月をその月の1日であると主張しても、
干支の日数で空白が無いと主張はしていない。それは欠史八代日数統計表
でみても、むしり空白があることを書紀は主張している。
つまり、コチラが主張する10日間をひと月とするような編年は存在しする。
だから、コチラが10日間のひと月を主張してもその主張を1年に反映させることが出来うる。

宿主空年は成務と景行の年代表からもデタラメであることが自明である。

310 :sss:2012/02/09(木) 22:34:32.91
>>305
竹内文書って最近のものなのかな。残念ながらほとんど知らない。
名前だけは聞いたことがあるが…。

311 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 22:36:45.71
>>309 訂正
× むしり空白があることを書紀は主張している。
○ むしろ空白があることを書紀は主張している。


312 :あらため:2012/02/09(木) 22:51:40.71
>>310

ぜひ、本を購入して読んで下さい
たぶん貴方以外の人、全員読んでると思います。

313 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:53:10.95
むしりとつように、歴史から事実を奪い取っていく。
新しい時代というものは、過去を奪い取ることから始まる。
藤原不比等、恐るべし。

314 :志紀:2012/02/09(木) 22:59:15.49
>>313
同感だね。傲岸不遜なその名前のごとく、歴史を改ざんするについては
北朝鮮並みの極悪人と言っていい。

315 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 23:09:11.31
>半島文献は紀と120年等に大揺れする。これは確定が現今にしられている文献では確定が無理だということを意味している。

それは、魏志に書かれた、239年に卑弥呼が朝貢した事実は存在しないと言いたいのか?
それとも、「半島文献は紀と120年等に大揺れする」を太国倍年で証明できると主張しているのか?


316 :sss:2012/02/09(木) 23:13:07.44
>>312
古事記や日本書紀を読んだ方がいいんじゃなかろうか。

317 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 23:21:03.29
>それは、魏志に書かれた、239年に卑弥呼が朝貢した事実は存在しないと言いたいのか?
こんなことは言ってないぜ。

言ってるのは239年に官だった伊支馬が239年以降のいつ垂仁天皇に即位
したんかということを聞いてるんだよ。217年のはずがあるまいが?ww
217年じゃあ魏は建国されてないんだよ。

239年垂仁即位じゃぁ、239年に即位して在位は239年〜239年の、たかが1年
だけとなるが、どうなんだね?ww

zzzzzzzzz・・・・・・・

318 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 23:29:30.19
古事記・日本書紀を信奉してるのに
卑弥呼・邪馬台国は日本のことだと妄信してるのはおかしい。
書いてないんだから日本のことではない。
そういう意味で古事記・日本書紀は正しかった。

319 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 23:33:35.51
>>317
>それは、魏志に書かれた、239年に卑弥呼が朝貢した事実は存在しないと言いたいのか?
こんなことは言ってないぜ。

これが学校教育による洗脳だよ。
自分もこれまでこんなことを疑おうという発想がなかった。
でもこんな重大なことが日本書紀に書かれないのはおかしいじゃないか。

320 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 23:35:08.58
魏志に書かれた、239年に卑弥呼が朝貢した事実は存在した。
けどそれは日本の外のお話なので日本史の枠内ではない。

321 :sss:2012/02/09(木) 23:39:57.75
>>318
卑弥呼の時代というのは倭人伝など中国の歴史書の記述により年代がはっきりしている。
2世紀の終わり頃から3世紀の中頃。
一方で、記紀の場合は年代が今一つ不鮮明。しかし、日本に3世紀半ば頃までの記憶が
残っていたとしたら、記紀にはその痕跡があると考えられる。

倭人伝の記述と記紀の記述を照らし合わせてみるというのも一つの方法になる。

322 :あらため:2012/02/09(木) 23:49:13.71
>>318
>卑弥呼・邪馬台国は日本のことだと妄信してるのはおかしい。

ここを読んでもらうと分かる通り、
どっから、どうみても日本列島です。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm

323 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/09(木) 23:50:13.76
>伊支馬が239年以降のいつ垂仁天皇に即位したんかということを聞いてるんだよ。

東觀漢記 百官表:
建武元年,復設諸侯王金璽綟綬,公、侯金印紫綬。九卿、執金吾、河南尹秩皆中二千石,大長秋、將作 大匠、
度遼諸將軍,郡太守、國傅相皆秩二千石,校尉、中郎將、諸郡都尉、諸國行相、中尉、內史、中護軍、司直秩
皆二千石,以上皆銀印青綬。

魏が当時の大王(後の天皇)を「官」と記してはならないという法律でもあったんか?


324 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 23:53:20.83
邪馬台国は奈良ですよ。

もう動きません。


325 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 00:00:51.07
纏向遺跡第166次調査。
http://www.city.sakurai.nara.jp/4211114.pdf
発掘現場だけの建物の再現をすると南北(正確には5°西に傾いている)に19.2mで東西
6.2mの細長い建物となり且つ建物の床を支える束柱まで完備した建物となります。

秋津遺跡
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_1128.htm
4世紀前半(古墳時代前期)の不思議な施設跡が3基見つかった。堀で四角に囲った巨大
な空間に複数の堀立柱建物や大型建物が配置してある。その形状が囲形(かこいがた)埴
輪に似ていることから方形区画施設と名付けられた不思議な建物跡である。

さらに興味深いことは、方形区画施設2,3,6は同じ場所に築かれているが、3の後に
2,その後に6が作り替えられ、しかも作り替えられるたびに規模が小さくなっていった
という。その時期は、出土した布留式1式と2式の土器から4世紀前半と思われ、どうも
20年から30年ごとに作り替えられたと推定されている。

纏向 3世紀前半の大型建物は、垂仁の珠城宮。〜ホケノ山古墳(225〜250年)
その跡を、土盛りと整地をし中期、景行の日代宮。〜箸中山古墳(260±ン年)
その後 秋津遺跡へ宮が移る。 品陀和氣命坐輕嶌之明宮治天下也
明宮はアキツミヤと読むことが出来る。
古事記の応神は、274年渡海の年に生まれ(古事記仲哀天皇274年壬戌崩御)
応神天皇(古事記366年甲午崩御)という数字が与えられている。
仁徳天皇(古事記399年丁卯崩御)
書記の仁徳天皇には、「仁徳天皇 313年〜399年」の時空が与えられている。

纏向遺跡は箸墓築造を以って緩やかな衰退期に入り、やがて秋津に宮が築かれる。
箸墓をモモソ姫で説明すると、垂仁や景行を説明できる纒向遺跡が存在しなくなる。


326 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 00:08:06.38
卑弥呼=モモソヒメ

卑弥呼の墓=箸墓

これで決まりだな。


327 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 00:23:23.87
モモソが卑弥呼の可能性は高い。
「日女命=神大市姫」と記録されてる文献の存在は
無視できないからな。妄想論ばかり言ってるのとは
話の次元が違いすぎる。

328 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 00:36:25.50
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。・・・
辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離
營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれを撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を
滅ぼす。
卑弥呼を半島に設定した場合247年以降の説明が出来ない。

北史 倭國 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。官伊支馬=垂仁。

卑弥呼は、混乱する北部九州倭奴國王位継承であり、邪馬台国(大和)と協力して
九州(女王国)を平定する。その証拠として、北部九州に庄内式土器が進出する。
大倭(邪馬台国)は 女王国(九州)の北部に1大卒を置き諸国を検察する。
316年 西晋滅亡時に半島に“国”と呼ばれる勢力は存在しない。だから、
323年 神功49年 政治的空白の半島を占領し、半島南部は倭国の領土となる。

モモソ姫=卑弥呼では、庄内式土器の九州進出を説明できない。
また、大倭=大和=邪馬台国の説明もできない。
崇神は任那建国前の王であり、鉄を持たない。

329 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 01:34:07.53
>>326

箸墓は、早くても4世紀以降だから、卑弥呼と無関係。

330 :志紀:2012/02/10(金) 06:40:04.05
>>326>>327
論証抜きに妄想を書くなよ。モモソ馬鹿。

331 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 06:54:05.05
>>330
まともに候補も無いのに論証ばかりしてるのが九州バカ。

332 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 07:40:08.33

宗教的な権威の在る場所。政都は以外と地味なのかも知れん。-

333 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 07:50:12.08
ヤマトトトビ・モモソヒメの母がオオヤマトクニ・ アレヒメ
別に名を日女命、神大市姫、日神(名は他にも複数有り)
九州南方系の名の母を持ち、若い頃吉備や讃岐で活躍。
三輪山の大物主と神婚するという、「神」の名を持つ姫。
兄弟関係も申し分ない人物が揃ってるしな。

334 :稗箕孤:2012/02/10(金) 08:02:26.69
ちゅうこくの帝は

ヴァーチャルこどもの女酋長のこと相手にして親衛隊ごっこをやらかしているわけですから

中郎将とか大夫のはもとのがヴァーチャルので

現代の人が

そいつは形骸化で地位低下してますとかゆうのはおよそおかどちがいでまぬけなのでし

もともとの親衛隊として機能しないとゆう意味で形骸化しているとゆうのはがちですよ

女酋長をヴァーチャルこどもとして認証して金紫光禄大夫に徐任するセレモニーのこと妄想したのがましなんでしょうがね

まああれだわ

現地でやる義理の親子の杯は牛さんの耳ちょんぎって血したたらせて交すんでしょうかね?

さしずめ梯儁さんあたりは介添え役あたりがぴったりでしょうね

親のほうの代理は梯儁さんあたりではつとまらないのでわ?

このあたりまでびじゅあるに妄想できないところがいさくもどきのすこしよわいところかな

親魏倭王 がんちくあじわってみてくださいね

335 :水銀厨:2012/02/10(金) 08:54:54.47
箸墓とは間人墓の事だろう。

箸とホトの逸話は巫女の終焉。
土師氏云々は実際墓造りにあたった一族の後世の伝承話。

箸墓=間人とは神と人を取り持つ(まぐわう)人物の墓という意。
箸、橋も異なる世界を取り持つ物だろ(これは他の人の説だが)

なので神と人が協力して墓を造っている逸話が差し込まれている。

336 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 09:02:46.44
>>318->>320
こういう人が出てきたことは喜ばしい。

337 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 09:31:59.10
邪馬台国が日本に無いなら、
3世紀の時点で、九州は畿内大和に征服されてたってことだな。


338 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 09:32:55.51
記紀に記事が少ないのが邪馬台国?じゃ四国の事だなw
気候風土も合致するし、行程上の矛盾もない。
大和や吉備との関連性も強い重要な場所、なのに記紀に記述が少ない。

339 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 09:34:46.25
>>337
まあ、ハヤト域は遅く迄野放しだがなw

340 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 10:38:42.06
箸墓の築造年代は280年くらいなのはほぼ確定なので、
台与の墓だろう。C14測定の240〜260年は正確な数値ではない。
布留零式の最古に築造されたのは間違いないので、3世紀後半だ。
箸墓築造後は箸墓のサイズを基準にして、全国各地に前方後円墳が作られるので、
当時の倭国の中心地は間違いなく大和。ホケノ山や石塚とか
箸墓より古い古墳も大和にあるので、3世紀の時点ですでに九州ではなく
畿内ヤマトに中心地は移ってたとみて間違いない。
九州説とかいまだに言ってるやつは馬鹿だから相手にする必要はない。


341 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 11:02:10.76
>魏が当時の大王(後の天皇)を「官」と記してはならないという法律でもあったんか?
大王に官などと呼称したら、大王は激怒しオマエが当時の人物なら命は風前の灯火
だろうが。ww

239年に大王の部下の官の身分でいて、それが魏の成立してない魏以前の時代
の217年に即位したというのは矛盾ではないか?ww
217年〜238年ころまででは、オマエの論では伊支馬は大王の部下の官の身分
でいるんだから、伊支馬が大王(天皇)に在位のはずがない。これはオマエの
言い分が露骨にデタラメだということを意味する。だからこんなことを言って
オマエは繕うわけさ。ハハ・・・

滑稽噴飯の物笑いの種だな。bbbbb

342 :稗箕孤:2012/02/10(金) 11:10:39.06
大王でも天皇でも

そんなもの勝手に持ち上げて騙っている確率とかがでかいから

とりあえずみんな酋長にでも変換してから騙っとけよ


343 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 11:44:16.02
>大王に官などと呼称したら、大王は激怒しオマエが当時の人物なら命は風前の灯火
だろうが。ww

晋書正始元年東倭重譚納具。

邪馬台国の酋長イクメは”官”の意味を知らない。


344 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 12:19:48.04
東觀漢記 百官表: 建武元年,復設諸侯王金璽綟綬,公、侯金印紫綬。

皇帝のもと、諸侯王以下すべてが”官”である。皇帝以外すべてが”官”である。
太国の言い分は、天皇になれるのは”皇帝”以外いないと主張していることになる。
つまり、太国倍年(季節や正歳を知らない)天皇は皇帝より上位の位であるといいたいのかな?
皇帝を知らない女王卑弥呼を蟻んこの世界に当てはめても、蟻は季節を知っている。
太国の主張する古代天皇は蟻以下の知識しか持ち合わせていない。

東夷倭王は、”公、侯”に相当する位である。
半島に辰王が認められても半島は郡の直轄地である。
そんな中、箸墓は作られる。邪馬台国倭王は、統一倭国(大倭)最初の大王である。


345 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 14:32:48.36
>皇帝のもと、諸侯王以下すべてが”官”である。皇帝以外すべてが”官”である。
皇帝は日本を当時領土としていない。

官なら女王卑弥呼も官か女官と書くわな。ww

ところが卑弥呼を女王と記述してるんだから、垂仁(勿論景行も)も当然
官でなく王とか大王とか天皇(オオキミ)とかの記述を倭人伝では書かれ
るのが当然だ。

だから景初3年の239年当時伊支馬が官であったとの記述は当然彼が同年に王
、大王の即位には成っていないわけで、217年に垂仁天皇が即位で239年まで
と垂仁天皇が在位してたとなると、官の伊支馬が垂仁天皇ではない全然別人
だということになる。つまり宿主の伊支馬が垂仁との主張はデタラメ論
だということだ。ウワハッハッハ・・・

官の伊支馬を垂仁天皇だというなら、239年からの在位とせにゃならぬ。ww

346 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 15:01:52.84
>239年当時伊支馬が官であったとの記述は当然彼が同年に王、大王の即位には成っていないわけで、

魏や後漢の承認が無ければ大王を名乗れないのか?名乗るだけならどこの誰でも可能である。
ただ、魏が承認していないだけである。

>官なら女王卑弥呼も官か女官と書くわな。ww

238年魏使は伊都国程度まで訪れ、倭奴國に朝貢を促す。
倭奴國は、ただいま暦年無主であるから、旧倭奴國勢力を中心とし、女王卑弥呼を共立する
その勢力範囲が邪馬台国までである。
239年 女王卑弥呼は、倭奴國王位継承の資格で朝貢団を派遣する。だから最初から倭王位を名乗れる。
対する邪馬台国は、官伊支馬が田道間守を派遣する。
239年時点では、魏は邪馬台国(大和)の存在を認識していても、大和が魏・後漢に朝貢した事実は存在しない。
つまり、239年時点で邪馬臺國王を、魏は承認していない。その承認が翌年である。
晋書正始元年東倭重譚納具。
240年にカテイ等が邪馬臺國王に倭王位授与。

>官の伊支馬を垂仁天皇だというなら、239年からの在位とせにゃならぬ。ww
四季も認識できない天皇に倭王位を授与することは無い。
天皇が倭王位を授与するためには、暦程度を知っている勢力としなければならない。
女王卑弥呼を阿蘇の山中に隠しては、倭奴國王位継承は不可能である。




347 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 15:10:45.44
>皇帝は日本を当時領土としていない。

238年までの認識を 239年の朝貢以後に当てはめられない。
238年までの認識であれば、韓・倭は公孫氏に臣従する。
楽浪鏡はそれを支持する遺物のひとつである。
239年 倭女王卑弥呼承認 
240年 邪馬台国 倭王 王位授与
これ以降魏・晋の冊封体制へ組み込まれる。



348 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:10:47.52
なんなら大陸の古文書で、日本の女王卑弥呼を官とか女官とか書いて
ある書を出してみろ。

349 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 15:16:01.58
>なんなら大陸の古文書で、日本の女王卑弥呼を官とか女官とか書いてある書を出してみろ。

太国が主張したいのであるから、文献は太国が用意できなければならない。
文献が用意できない太国の言い分は妄想である。


350 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:21:15.36
官の伊支馬を天皇だと言い張るのはオマエだよ。だから伊支馬が大王で
あると書く古文書を出しなさい。また女王卑弥呼が官とか女官と書いて
ある古文書を出してみろ。

つまり無いということだな。それは卑弥呼女王を官とか女官とか呼称
してなかったことを意味する。
ということは、239年までは官の伊支馬は垂仁天皇に即位なんぞして
いない。つまり魏の成立前の217年に伊支馬が即位した事実はない。

ということは伊支馬が垂仁でないことを意味するのだ。泣け!!ww

351 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/10(金) 15:34:57.13
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物[古韓尺の使用=任那より朝貢]
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 [九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]

文献・考古学は、伊支馬を垂仁とすることで、書記の記述と整合する。


352 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:39:36.32
×→成務天皇 262年〜265年(基本的に57年の空白)←下表からウソ
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

353 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:42:17.68
文献・考古学は、伊支馬を垂仁としないことで、書記の記述と整合する。

整合するなら伊支馬が大王で
あると書く古文書を出しなさい。また女王卑弥呼が官とか女官と書いて
ある古文書を出してみろ。

つまり無いということだな。それは卑弥呼女王を官とか女官とか呼称
してなかったことを意味する。
ということは、239年までは官の伊支馬は垂仁天皇に即位なんぞして
いない。つまり魏の成立前の217年に伊支馬が即位した事実はない。



秀魔電は季語がだいぶ抜けており、書紀は季語がほぼ
全部各日付の冒頭にあることから、秀魔電は紀の季語
を後付けとしない限り紀の原書にはならない。

なお宿主は後付けではないと主張してるから、紀の多数
の原書群に全部季語(春夏秋冬)が各文冒頭に
ついているんだことを意味してる。
秀魔電には季語がだいぶ各文冒頭についてないから、
宿主の言う後つけならば秀魔電は紀の原書にはならないこととなる

354 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:47:06.30
>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソで38年分の空年はない

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               【続く】

355 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:50:54.13
>>354 続き

>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソで38年分の空年はない

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

356 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:25:43.90
>>337
その畿内銅鐸国家は、簡単に滅亡してるわけだが。

357 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:42:01.74
>>356
>畿内銅鐸国家

九州説業界のいわゆる「ギョーカイヨウゴ」ってやつですか?


358 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:52:55.95

銅鐸は九州で製作され、国内交易で主要なヒット商品となった
その後に銅剣・銅矛という新商品が発売されたがこれは銅鐸ほどの人気はでなかったようである
その後輸入に頼っていた銅鏡を国内で製作できる技術ができ、これは銅鐸を凌ぐ大ヒット商品となり
市場が大きい畿内でも職人が集められ製作されるようになったため、これまでのように九州ぼろもうけ状態とは
いかなくなった

359 :志紀:2012/02/10(金) 19:53:13.52
>>357
じゃあ銅鐸とは何か説明してみろよ。
大和朝廷はそれがなんなのか知らなかったんだぜ?

畿内説のクズ共は、臭いものには蓋、違う意見はキチガイ扱い、それでいて自分では何も説明しない。出来ない。
口を開けば「マキムク、ホケノヤマ、ハシハカ、モモ」どんだけ馬鹿なんだよwwwww

出雲にクニがあったと言ったらキチガイ扱いした学者は、そのことについて謝罪したのか?一人でも。ああ?
学者というのは、庶民よりモラルの高い人たちではないのか。文化、学問を志し、それで飯を食う人間の醜い罵詈雑言
など、薄汚くて見ていられんな。

360 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:00:24.60

ここで学者の責任を負わされても困るのである。

361 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:05:12.09
うらんで恨んで恨み節

362 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:16:37.95
>>359
記紀でも説明してあるよ。勿論直接的ではないが。
銅鐸と銅矛はセット。直線の矛に対して渦紋の鐸、
祭祀目的なのは誰でもわかるはずだが、後は自分で考えな。
何度もいうが、記紀にはちゃんと書いてある。

363 :志紀:2012/02/10(金) 20:17:37.71
またキチガイが粘着してるのか。

例のおっさんとは今でも仲いいよ。発掘とか連れてってくれるし。
親戚の文化財研究員もな。

恨みって、具体的に言えよ。キモい。
お前死んでくれていいよ。

364 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:21:17.90
どうみても基地は志紀だろw

365 :志紀:2012/02/10(金) 20:31:30.61
>>362
思わせぶりになんか言ってるが、そんな事言ってる奴いねーよw
「続日本紀」、「三代実録」、「扶桑略記」にはあるが、それも「発見」扱いであって、そういった祭器が
代々伝えられたものという記述は全くない。三種の神器は勿論、物部の十種の神宝にも、ない。

>>364
よかったね( ´_ゝ`)

366 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:38:48.00
一番人に罵詈雑言吐いてるのは志紀だよな?
九州説論者は他人を批判すると結局自分に帰る、お家芸だねw

367 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:49:41.78
>>340 19才
まだ生きていたんか?。
相変わらずバカ言ってんな。単に主張するのではなく論証をせんかい。史学科が聞いてあきれるわ。

368 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 21:47:52.14
今時史学科とか行っても就職ないぞww
頭いい奴はほとんど医学部に行くよ。

369 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 21:52:12.24
大病院勤務は休みなくて地獄だけどな
親が開業医でその手伝いとかなら極楽だわ

370 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 22:00:53.77
小賢しい奴ほど流行に流される。
そしてそういう奴らがその業界を駄目にする。
就職人気ランキング上位企業がその後どうなったかを追ってみろよ。

371 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 22:14:33.06
史学科は昔も今もそして未来ももっとも就職悪い分野w
教員くらいしか歴史学を生かせる職がないから。

邪馬台国よりFXでも極めたほうがいい。

372 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 23:01:16.57
大乱とは兄弟の争いのこと

373 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 23:43:26.28

喧嘩はおよしよ

374 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 23:49:14.99

神功皇后=卑弥呼じゃダメなの?

375 :日本@名無史さん:2012/02/10(金) 23:56:16.50
考古学にはもっと科学技術を導入したいとこだな。
ちょっとリサーチしてみて、良さげだったら、
来年の科研費にでも応募してみるか。

まあ、落とされる可能性大だが。

376 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 00:00:09.66
>>374
ダメだと何回言われたらわかるんだ?

377 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 00:04:40.14
神功皇后と卑弥呼じゃ 卑弥呼のほうが実在性が高いと思う人が圧倒的だろ

378 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 00:09:08.03
景行、成務、仲哀、神功の九州平定組は、
景行が九州に来てから、成務以降を九州で育って、
神功で畿内に帰ったのか、
いっぺん帰って、各人が時々九州にワープしたのか、
どっちだ。

379 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/11(土) 00:23:12.17
>考古学にはもっと科学技術を導入したいとこだな。

考古学が正しい判断を下しても、文献史学が記紀をそれに合わせられなければ
古代史は解明されない。

晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
秋津遺跡 (布留1〜2)3世代分の年数 4世紀前半(古墳時代前期)(軽島の明宮)

秋津遺跡は応神の明宮である。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)

応神の明宮は、4世紀初頭から366年程度までの宮であるが、応神一人にしかあてがわれていない。


380 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 00:47:59.52
神功皇后は男まさりだからな、卑弥呼はどんな秘技を持ってたんだろうってどーしても興味が沸くな

381 :sss:2012/02/11(土) 00:50:34.25
>>374
日本書紀の神功皇后記を見ると、新羅・百済がわんさか出てくる。
合わせると100回くらいは出てくる。明らかに神功皇后はこの時代になる。
新羅・百済の建国は、それぞれ356年、346年なので神功皇后の時代はそれ以降と
考えなくてはならない。
3世紀前半の卑弥呼の時代とはかなりのずれがある。

日本書紀の神功皇后による三韓征伐と好太王の碑文にある倭兵の侵攻は良く似ている。
恐らく同じことを言っているのだろう。だから、神功皇后の、いわゆる三韓征伐は
好太王の碑文にあるように西暦391年頃と考えられる。

また、いわゆる倭の五王が東晋に最初に遣使したのは西暦413年になる。
つまり倭王・讃なのだが、神功皇后の時代を4世紀終わり頃とすれば、
讃もだいたい見当がつくというもの。

382 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 01:00:59.57
神功皇后が応仁天皇を産んで畿内に帰ったのが、
実は九州勢力が畿内を席巻した、という暗喩にはならんかね?

383 :sss:2012/02/11(土) 01:08:40.64
>>382
その可能性もあるかもしれないが、ちょっと良くわからないなあ。
王朝交代説もあるらしいが…。

384 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 01:13:46.76
文献に書いてあることを第一に捉えるのが史学の基本で、九州勢力が
畿内を席巻したというならかなり強力な根拠を出さなくてはならない。
まあ素人だから面白半分に説を立てるのはべつにかまわんだろうが。

385 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 01:20:04.50
邪馬台国は畿内なんだから、余計なこと考えてても人生の無駄だよ。


386 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 02:44:58.46
記紀は神功皇后=卑弥呼だと書いている。

387 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 04:33:47.06
>>385
畿内銅鐸国家は、あっさり滅亡したから関係ない。

>>386
記紀は明らかに無理してるから、矛盾だらけだよね。

388 :志紀:2012/02/11(土) 08:12:54.17
>>382
ならないな。当時の状況で、そんな煩雑に往復できるわけがない。
また、奈良勢力がそこまで執拗に半島にコミットする理由もない。鉄の普及していった4世期、
半島の鉄をそこまで必要としたとも思えないし、その分析も半島の成分比ではない。

書紀応神前記に筑紫で生まれたと書かれているが、宇佐八幡宮にしても、拠点もなくいきなり
先進地北部九州で畿内勢力が、さも新しい宮を畿内で作るように王者の振る舞いを出来るわけ
がないのではないか。「ヒメ大神」という大層な主神の左右に、行きずりの他家のご婦人が祀っ
て貰えるのは簡単な事じゃない。一昨年宇佐八幡で応神の千七百年祭があったが、勿論主催
は宇佐八幡で、畿内ではない。それはそうだ、全国一万数千八幡社の総本社が宇佐なのだから。

ただ九州で生まれただけの、本拠を畿内に持つ神功=応神一派がその拠点ではなく戦争時の
滞在時にすぎないなら、それを主神とする神社は畿内にあるべきではないか?

389 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 08:25:35.19
だから記紀上で卑弥呼の存在に一番近いのがモモソだね。
神功は年代も合わないが、陣取に立って
戦場に出向いたり、子を産む時点で全く異なる。
男装したりする事から、むしろ伊予をモデルにしている可能性もある。

390 :志紀:2012/02/11(土) 08:37:08.27
記紀の中であえて比定すれば、って話であって、モモちゃんなら決定的とかそんな事はないよ。
そこに魏の使いだとか親魏倭王だとか公孫とか呉とか黄幡とか、何も書かれてない。鬼道もない。

391 :観客その1:2012/02/11(土) 08:45:04.66
>>389 名古屋のボンクラニート
お前まだ<しれ〜>っと板に住みついてんだ
お前の<モモソ=卑弥呼の連呼>は誰も相手していないもう秋田

392 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:13:05.84
>>390
そこに魏の使いだとか親魏倭王だとか公孫とか呉とか黄幡とか、何も書かれてない。鬼道もない。
それじゃ永遠に卑弥呼は卑弥呼でいいでしょ。

>>391
別人なんだけどね。
モモソは卑弥呼像を想定させるのは、間違いないので
それを更に掘り下げていくよ。俺は名古屋〜じゃなく
奈良の橿原住み。色々地元しか判らないネタも多いよ。



393 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 09:20:52.13
>>381
イメージだけで語ってもらっては困る。新羅、百済と書かれているのは
書紀編纂当時の知識で書かれているからで、必ずしも後の新羅、百済のことではない。

>>386
どこにも神功皇后=卑弥呼だとは書かれていない。
中国にこういう文献があります、と参考のために紹介しているだけだ。

安易な理解、安易なイメージで語っている奴が多すぎる。もっと深く考えろ!

394 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:24:36.66
卑弥呼が朝鮮にいた可能性は100%無いけどな。

395 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:38:32.62
>中国にこういう文献があります、と参考のために紹介しているだけだ。
なぜ、神功皇后の記事の中で紹介したんだ?



396 :独占者:2012/02/11(土) 09:41:28.88
終止符朝鮮 
ドン来いムゲ尿 
それ久留米

397 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:51:52.82
>>395
早い話が辻褄を合わせる為の作為。
記は対外的にも目が触れる公式な国史なんで、
文言さえいれておけばいいという判断だろう。

398 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 10:16:35.68
>古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

>崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)

上の編年 ↑ は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作
であ〜る。

<大中臣の下命>
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの大中臣からの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く)つまり天津金木の両端数 ○数字である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。
本物は天津金木の指示する値であ〜る。 崇神即位年≠188年

399 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:30:35.17
ヤマタイ国なんて江戸時代の国学者がでっち上げた架空の国家
ヤマト国以外にいくら探しても見つかるわけがない

400 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:32:38.60
おまえらもう邪馬台国からは撤退しろ。
研究対象としてもう伸びしろはないよ。
新しい発見でもない限りもう進展しない。
ごちゃごちゃ妄想するだけ時間の無駄。

401 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:44:25.09
>>397
それだけでは、神功皇后の記事の中に入れた理由にはならない。
神功皇后と卑弥呼に何か共通点でも見つけたということかな?

402 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:56:23.01
魏志倭人伝は架空の書物。
そんなもの見たことがあるのか?

403 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:04:39.48
>>359 死期(の近い爺さん)

>じゃあ銅鐸とは何か説明してみろよ。

ん?一般的な解釈で言えばムラの共同祭器だな。
だから後の銅鏡のように個人の墓から出てくるのは極々稀。
少なくともこれの分布を「国家」と言われる物に結びつけるのは畿内説だの九州説だの関係なく殆どいないだろうにw
(まあF永センセイはそれに近いような事を言っているっポイがwww)

お前こそ銅鐸を「国家」に結びつけられるような説明をしてみろよ?あん?w
大体ここのゴミクズレベル九州説は言ってることが支離滅裂
そもそも畿内には王権・国家と言えるような物は存在していなかったと言うのが基調のはずで
中にはほんの2000年前まで奈良盆地が巨大湖に覆われていたとか言う奴もいるw

そのくせ 「銅鏡勢力が銅鐸勢力を駆逐したんだ!」 と言うシナリオは分かりやすく魅力的なようで
(駆逐された側の)『 銅鐸国家 』なんてものを平気でほざくw
銅鐸の分布域に国家を合わせるとなると相当な版図を持った堂々たる国家だwwwww
もう出たとこ勝負で二律背反することを平気でほざいているキチガイとしか言いようが無いレベルwwwwww

>出雲にクニがあったと言ったらキチガイ扱いした学者は、そのことについて謝罪したのか?一人でも。ああ?

それを言った個人にお前が「謝罪と賠償」を要求でもしておけ恨み節のゴミクズw
つうかその「キチガイ扱いした学者」って誰なんだ?(”キチガイ扱いされた学者”も分からないが案外マジモンでキチガイだったりしてw)
自分以外のこの板の連中は分かっているんだろうか?

>学者というのは、庶民よりモラルの高い人たちではないのか。

まあ「末は博士か大臣か」とか言う言葉も大昔の死語になった感がある今日日、そんなイメージを固守している奴もそういないんじゃないのか?w
この恨み節・私怨くんの根っこは案外アカデミズム・権威に対するコンプレックスの裏返しだったりしてなwww

404 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:05:51.47
プロは邪馬台国問題など胡散臭いから距離置く人がほとんど。
一般人はんなもんどこに邪馬台国があろうがどうでもいいんで関心なし。
結局素人のオタクくらいしかこういうネタには食いつかんわけw
まさに歴史オタにはうってつけのこれ以上にないネタだしね。
程よく文献と考古学資料があり、専門家以外でも参入できそうで。

405 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:31:57.37
>>401
充分な理由だよ。神功という架空の女性を、
色々な逸話を組み合わせながら創出したに過ぎない。
ベースはトヨ(イヨ)だろう。

406 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:34:50.86
>>404
まあ基本的に史料が約二千字の倭人伝と言う単一史料だと言うのが大きいんだろうなw

そこには邪馬台国までの道のりが示してある。

「どれどれ、今まで誰も解き得なかった暗号を一つ自分が解いてやろうじゃないか」と取っ付きやすい。

加えて日本という国家の誕生、黎明期の話で自身の国家観と言ったものも反映しやすかったり
或いは地元びいきという感情もあるだろうし…

何れにせよ70〜80年代あたりの邪馬台国ブームは歴史に対し一家言持つアマチュア
ワン・アイデア閃いたアマチュアがプロの先生方を向こうに回して堂々と論を主張できた
いわば「古きよき時代」だったのかなあ…とwwwwww

407 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:35:39.60
>「銅鏡勢力が銅鐸勢力を駆逐したんだ!」 と言うシナリオは分かりやすく魅力的なようで
>『 銅鐸国家 』なんてものを平気でほざくw銅鐸の分布域に国家を合わせるとなると相当
>な版図を持った堂々たる国家だ。

銅鏡勢力とか銅鐸勢力という場合は、それぞれに複数の国家があることを考えているわけだが、
君はそんなことも知らないのか?


408 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:52:12.31
>>407
とりあえず近畿式と三遠式は分け無いと不味そうだわなwww

それでも結構な勢力範囲を持った『 国 家 』群があったと言うのはインド人もびっくりな内容だw
歴史教科書も内容の書き換えが必須だなw大体…

>君はそんなことも知らないのか?(キリッ

とか言われましても正直『 銅鐸国家 』なんてここでしかお目にかかったことが無いんですが(苦笑

キューシュー説業界の専門用語かもしれないが一般人が知っていると言う思い込みは止めた方がいいぞwwwwwwww

409 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 12:45:06.94
北部九州でも銅鐸作ってたのに、今更
銅鐸対銅矛文化圏なんて成立しないよなw
出雲で大量の銅鐸銅矛が、一緒に発掘されて終了した話。

410 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 12:48:55.63
>>395
書紀の編纂者も神功皇后のことはよく知らなかったわけで、
中国の文献に似たような女性のことが載っているので、
もしかしたらこの卑弥呼というのが神功皇后のことかな?
まあ読者は参考にして下さい、程度の気持ちで挿入しただけですよ。

411 :sss:2012/02/11(土) 13:16:26.79
>>386
日本の場合、古い記録・伝承には年号がなかったと考えられる。
しかし、編纂において年号を付けたかったのか、付けなくてはならないと思ったのか
日本書紀にはかなり詳しい年号がついている。

それが神武天皇即位を紀元前660年とするという年代観。この年代観で日本書紀は
作られている。しかし、初期の天皇の年齢や在位期間からもわかるように
この年代観には無理がある。少なくとも、神武即位の紀元前660年は考えられない。

この年代観で、神功皇后も語られていて、日本書紀では西暦201年から269年までに
相当する。くしくも卑弥呼の生きた時代とだいたい重なる。台与と思われる
女王の西晋朝貢の266年までも含まれる都合の良さである。

日本書紀の編者が、倭人伝の記録を挿入したくなったのもわかるというもの。

しかし、神武即位の紀元前660年に無理があるということは、それを元にしている
神功皇后の年代にも無理があるということになる。
だから、日本書紀の記述を根拠にして神功皇后=卑弥呼ということはできない。

412 :稗箕孤:2012/02/11(土) 13:25:17.76
「伊都」
「いつ」のかあちゃんつうのは

「伊都母」
「いつも」でっ すなはち

「投馬國」
「つまこく」でぇ

「阿投馬」
「あつま」に位置しますのですよ

「穢狛」
「わいはく」のが黒曜石の流通とか銅器の流通とかので深く関与だべさね

413 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 13:32:23.95
投馬は妻、サツマはツマの南だな。南九州で、
この辺りからモモソの母方は出てるのだろう。

414 :俾彌孤:2012/02/11(土) 14:26:55.97
びみょおにコテ変えてみた

415 :俾彌孤:2012/02/11(土) 14:38:21.48
「卑弥呼」を
「ひみか」と発声するのには批判的なもれがいますぅ
へんな漢文読みの音とか流用するのとかはやだし
甕のことを「みか」と発声するするようなへんな読み方には信用がおけませんわ

へんな漢文読みの音とか流用したら
「壹與」は
「いと」だけど これもすきくありませんですよ

「壹」を「臺」に差し替えたりするのは学問として論外だすよ

416 :俾彌孤:2012/02/11(土) 14:48:21.41
「壹與」たんは とりあえずは
「いよ」たんで良いかとはおもひますが

もっとすなおによむべきかなともおもひますぅ
すなはち

「壹與」」たんは
「ひとよ」たんで

もしそおゆうふうに発声するのだとすると

遥かなるご先祖の支石墓ののお名前とリンクがもてますですし

「日十大王」ばあちゃんとのリンクもとれますでし

417 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 15:21:30.61
神武の即位が紀元前660年だということは、記紀のどこにも書いてないわけで、
学者が、記紀の干支や天皇の寿命から単純に計算しただけである。

そういう単純な計算には落とし穴があるのである。
神武の即位が前660年ということはありえない。前6600年でも不思議ではない。

倭姫命世記に、神武から開化までは神と天皇の境がはっきりしなかったと書かれている。
その意味は、神武から開化までは先史時代の話ですよ、という意味だろう。

普通、先史時代とは前千年〜前三千年以前を謂うのだから、
神武〜開化は前千年〜前三千年以前のことですよ、と謂っていると解釈すべきなのである。

分かるかな?
古代史を学んでも、こういうことが分からないと意味がないぞ、諸君。

418 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 15:49:23.82
そんなに古くはないですね。
神武即位元年は西暦元年の辛酉です。

書紀には神武以降年月日がふられているので、よく調べれば真の年代を
把握できます。

419 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 15:49:30.76
>>417
>神武の即位が前660年ということはありえない。前6600年でも不思議ではない。

キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!



420 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 15:58:01.75
ウガヤフキアエズ朝はエジプトやシュメール王朝より古く1万2千年くらい続いている。
その流れをくむ神武は中興の祖といった存在だろう。

421 :縄嘉ー:2012/02/11(土) 16:01:26.19
>>417 :卑弥呼は朝鮮にいた
儂は貴殿の言うことの中にはまともなものも有ると思っているのだが、
この話はどうかな?
先史時代というのは今日的な時代区分じゃよ。
記紀が編まれた8世紀に先史時代というような時代認識などなかったよ。
神代だな。
それはもう誰も”どれだけ前の”ことだったか記憶していない頃のことなのじゃ。
人は記録がなければ時間的なこと時系列のことは分からなくなってしまう。
地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災があったことを記憶している人は多いだろう。
事件そのものについては記憶に残り易いが、さて年月日を覚えている人は当事者以外には少なかろう。
これらの事件は僅か17年前のことである。
百年前と言えば
・孫文、中華民国臨時大統領就任(1月)
・宣統帝、退位→大清帝国滅亡(2月)
・タイタニック号沈没(4月15日)
・大阪市浪速区(当時は南区)に通天閣が完成(7月3日)
・明治天皇崩御(7月30日)→同日、大正天皇践祚
などが記録されているが、記録に頼らず言える者はもういないだろう。
8世紀の我が国では5世紀の記録が残っていた可能性も疑わしい。
4世紀以前ともなれば神代だろうよ。

422 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 18:15:30.79
そういや誰かが貼っとった魏船の先っぽのとこに銅鐸みたいのがぶらさがっとったの

423 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:15:46.79
素人の妄想ばかりでマジ邪馬台国論争など馬鹿馬鹿しいわww
こんなん時間の無駄過ぎる。邪馬台国研究の伸びしろなど
新しい新発見でもないかぎりないからやるだけ無駄だと言ってるだろ。


424 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 19:23:15.70
ごく大雑把に、次のように時代区分をすることができる。

インド文化期       前7000年〜前5000年
ペルシャ文化期      前5000年〜前3000年
エジプト・カルデア文化期 前3000年〜前800年
ギリシャ・ラテン文化期  前800年〜後1400年

人類がかなり明確な記録を有するようになるのはギリシャ・ラテン文化期からである。
エジプト・カルデア文化期のことはもはやかなり不分明になる。
それ以前のペルシャ文化期やインド文化期のことは伝説でしか分らない。
しかしまだこれらの時代は神代ではない。神代とは一万年以上前のことである。

日本でかなり資料が豊富になるのは崇神天皇の頃からである。
ゆえに崇神天皇というのは前800年以後の天皇だろうと私は密かに思っているのである。

425 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:30:45.16
内田康夫の「箸墓幻想」読んでるがつまらんわこれw

426 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 19:32:08.51
崇神天皇は3世紀前半のころですよ。

427 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:40:03.72
>>423
さっさと足洗えばいいんじゃね?

428 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:50:53.98
くだらんことごちゃごちゃ言うより箸墓でも
盗掘しにいったほうが早いww
それくらいのことしないともう邪馬台国問題など進展しないよ。
そんなに邪馬台国が好きならそれくらいのことしてみろww
水行陸行と延々妄想して議論してても意味ないことも理解する
おつむすらないんかいww

429 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 20:00:26.47
日本文化期   前20000年〜前18000年

430 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 20:02:02.36
記紀を無視して何を言っても無駄だよ。
卑弥呼はモモソ姫だとか、箸墓は卑弥呼の墓だとか…。

畿内説の人は記紀を無視して空想に耽っているだけだよ。
卑弥呼とモモソ姫ではイメージも全然違うし、時代も全然違う。

名古屋君もなぜそんなことが分からないのかな?
やたらとC14のことを書いてるけど、C14の精度が問題ではないのだよ。
外濠から出た土器では築造年代は分らないということだよ。
前提となっていることを疑わなければダメなんだよ。

431 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 20:22:42.65
モモソが卑弥呼像に近いのは誰もが思う事ですがw
一部の特殊な思考の人々を除いてね。

432 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 21:13:03.40
イメージでいえば、卑弥呼にいちばん近いのは、やはり神功皇后だな。
モモソも倭姫も卑弥呼のイメージはない。

もうひとり飯豊青皇女というのがいて、天皇扱いされたこともあるらしいが、
時代が新しすぎるし、清純なイメージなので、やはり卑弥呼ではない。

実は、飯豊青皇女が卑弥呼ではないかと、密かに考えていた時期があるのだが。

433 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 22:07:19.68
神功皇后に卑弥呼のイメージはないなぁ。
卑弥呼は女王になってからは殆ど顔を見せないのに、
ガンガン前線に出てるじゃん。それに子供産んでる時点で無いわ。

434 :sss:2012/02/11(土) 22:20:58.56
卑弥呼は天照大神。

435 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/11(土) 22:22:22.44
>>398 :太国

九章算術
歴史上この本を註釈した数学者は多く、劉徽と李淳風による註釈本は有名である。例えば『九章算術』の原本では円周率を3としているのに対して、劉徽は
3.14 +64/62500 < π< 3.14 + 169/62500
であり近似値として3.14を使うのがよいと註釈をしている。これは当時(3世紀頃)の世界における最高精度の近似であった。彼の名を称えてこの値は徽率と呼ばれた。

いくら頑張っても、π=3.14より正確な数字は無い。


436 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:29:39.90
これは当時(3世紀頃)の世界における最高精度の近似であったとは
いえない。
オマエ、当時にタイム・マシンで行って世界すみずみ見たような言い草だな。
彼の名を称えてこの値は徽率と呼ばれた。←これはこれでいいだろう。
しかし最高精度だとはどこにもその根拠がない。

いくら頑張っても、π=3.14より正確な数字は在る。



437 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:36:49.33
天津神算木(天津金木)は古代マヤ文明元年始原日を指示している。

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**は冪、r=3)

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097

B.C.3113年 9/7 マヤ文明元年 基点日 (天文暦)

と想われる?それは以下の事由による。

@説 B.C.3114年 9/8 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「マヤ文字解読辞典」047頁 マイケル・D・コウ著 創元社刊

A説 B.C.3114年 9/6 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「神秘の王朝 マヤ文明展」234頁 八杉佳穂述 TBS 国立科学博製作

天文暦のB.C.3113年は結局グレゴリオ暦のB.C.3114年であることから、
@とAと、分断の天津神算木の誤差は1日である。だから真の同元年
基点日は 9/7 であろう。

438 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/11(土) 22:36:50.58
>最高精度だとはどこにもその根拠がない。

1年が365日であることも理解できていない→倍年は存在した。
円周率が3であっても体制に影響しないが、
1年が365日であることが理解できない集団が3.14を認識することは不可能である。



439 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:39:27.57
>>437 [続き]
前説の場合
 9/7が着座の日(マヤ暦での0日)になり、9/8は1日になる。
 着座の日の翌日の1日が基点になっている。

後説の場合
 9/6が着座(同上)の日になり、同日が0日だということだな。だから
 1日は 9/7と なる。
 着座の0日を基点としており、翌日が1日となる。

いずれかが真ということだ。

天津神算木の等号の両辺をまたいで年代のB.C.3113年が成るが、
左辺のほうは3のみである。このことはこのマヤ文明元年が三輪(半径
3の円)に象って始原を決めたということを示唆している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前説(9/8説)は9/7をマヤ暦の着座(チュム)の日とした場合であり、
この日を0日とみなせば翌8日が第1の日となりこっちを基点日とする。
天津神算木のほうは着座の日(9/7)を示している。

後説(9/6説)は同日を着座の日として9/6を0日と為しこれを基点日
とするわけだが、第1日たる翌日の7日は0でなく第1日という始めの数
の日ともとれるから、天津神算木では第1日のほうを示して7日とし、
後説は0日基点なのである。 いずれかが真であろうと言える。

440 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:42:28.12
>1年が365日であることが理解できない集団が3.14を認識することは不可能である。

当時は1年が365日の通常暦と倍暦との重暦であり、上のオマエの考えは
否定される。

頑張っても天津金木の年代指示には勝てない。ww


441 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:45:39.95
>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソで38年分の空年はない
つまり宿主空年とは宿主の脳内のデタラメである。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               【続く】

442 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 22:47:08.15
>>441 続き 宿主空年のインチキが上と下からあばかれる。ww

>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソで38年分の空年はない

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

443 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 22:57:49.10
終止符スレ・・・ sss-朝鮮 
ドン来いスレ・・・伊作-ムゲ尿 
それでも九州・・・久留米

スレの人気は彼らの腕しだいだ
どこが腕が良いと思う?

444 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 22:59:18.75
メ はいなくてもよい、というかいないほうがよい

445 :日本@名無史さん:2012/02/11(土) 23:01:02.17
終止符スレ・・・ sss-朝鮮 ※大御所(太国&唐松)
ドン来いスレ・・・伊作-ムゲ尿 ※くぐつ師(ジョーカー)
それでも九州・・・久留米

スレの人気は彼らの腕しだいだ
どこが腕が良いと思う?

446 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 01:37:23.66
>1年が365日の通常暦と倍暦との重暦であり

倍暦が存在したことを書記の日付を使って証明する必要がある。
この証明が出来ないと、>>441->>442 の数字のためには、
少なくとも太陰暦の60年が必要となる。


447 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 01:39:04.88
古記のいう昔年の暦は、閏月は固定されている。
三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月
これが古代の暦であるならば、仲哀元年に閏11月が存在するのであれば、仲哀9年に
閏12月が存在しなければならない。
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月戊午《四》◆閏十一月乙卯朔戊午。
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)十二月辛亥《十四》◆十二月戊戌朔辛亥。
神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)三月庚子《五》◆三月丙申朔庚子。
12月戊戌朔・閏12月戊辰朔・元年1月丁酉朔・2月丁卯朔・3月丙申朔
と閏12月は存在する。


448 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 01:39:31.40
唐松山はこの太国との戦いをいつまで続ける気なのだろう?
そして決着は着くのだろうか

449 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 02:02:34.85
二人は只の荒らしだろ。
何か流したい書き込みでもあるんじゃないの?

450 :日本@名無史さん :2012/02/12(日) 02:33:31.00
奴らはどう低く見てもこのスレのトップ2で
他の連中はそれより遥か下のレベルというのが現実

451 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 04:01:31.83
>>445

「ドンと来い邪馬台国、それでも九州で終止符!」と言うスレに統合すべし。

452 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 08:10:47.80
>>450
いや、それは無いよw

453 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 08:20:02.08
邪馬台国大喜利
                                ∧,.∧
              ∧,,∧              (`・ω・´)                     ハ,,ハ
             (´・ω・`)     ∧ ∧     (冫,y,, く)             ∧ ∧     (゚ω゚=)
  /⌒ヽ        (_>cく__)    (*‘ω‘ *)    (________)    /⌒ヽ    (o゚ω゚o )   (__>cく__)
 (ヽ´ω`)  ∬     (________)   く冫y,,cく__)  彡※※※※ミ  (^ω^ )   く冫z,,く__)   (_________)
pく冫y,,く__) 旦   彡※※※※ミ  (________)  .彡※※※※ミ   (__」L_)    (________) .. 彡※※※※ミ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|   彡※※※※ミ 彡※※※※ミ 彡※※※※ミ  (________)  彡※※※※ミ 彡※※※※ミ
TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT
  メ師匠       久留米     伊作      ローガン    夢幻     太国     ジョーカーww


454 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 08:41:23.45
>>408
>『 銅鐸国家 』なんてここでしかお目にかかったことが無いんですが
単なる勉強不足だろう。それに、銅鐸勢力の国という意味であることぐらい
見れば分かるわな。そんな言葉遣いにケチをつけようってのは、貧すれば鈍す
るというやつだ。
とにかく、銅鐸はいっせいに消滅し、九州の色に塗りつぶされた。銅鐸勢力が
九州の勢力に征服されたということは明白。畿内説論者は、それをどうしても
認めたくないだろうが、もはや否定しようのない段階に至っている。

455 :志紀:2012/02/12(日) 09:03:38.96
>『 銅鐸国家 』なんてここでしかお目にかかったことが無いんですが

晒しage

456 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 09:12:02.86
銅鐸が消滅したのは1世紀だから、

邪馬台国は畿内だったというわけか。

なるほど、よくわかったよ。


457 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 09:41:10.01
>銅鐸が消滅したのは1世紀だから、邪馬台国は畿内だったというわけか。
へー、1世紀か。銅鐸が消えて銅鏡になったはずだが、それも1世紀かい?
とにかく、銅鐸の消滅は植民地にされたってだけのこと、遷都があったわけじゃ
ない。畿内説の成立余地はないよ。

458 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 09:41:35.53
最近の畿内説は徹底して年代でごまかす戦略をとっているな。

459 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 09:57:40.48
>>446
空年が存在したことを書紀と>>441>>442の年代を使って証明する事が
できない。
この証明が出来ないと、>>441->>442 の数字のためには、
少なくとも空年の38年の遺棄が必要となる。
また退院歴でやろうと太陽暦でやろうと年代のズレは極めて狭小であり、
通常では退院歴がどうのこうのは編年には無用の短物である。

よくよく宿主は退院歴が好きらしい。ww

460 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 10:15:51.18
>>448
>そして決着は着くのだろうか

決着は着いている。
>>440 :太国
当時は1年が365日の通常暦と倍暦との重暦であり、上のオマエの考えは 否定される。

古記は、太陰暦であったと主張している。書記の太陰暦は文献と考古学に整合させられれば一応の正解である。
太国は、書記の太陰暦を”1年が365日の通常暦”に変換できない。
太国は、書記の太陰暦を”倍暦”に変換できない。
そして、”重暦”を主張しても数字に変換したためしがない。
つまり、主張すること自体が無理である。



461 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 10:25:51.25
神武は退院歴を太陽暦に換えろとの勅命がある。
再説するが、退院歴でやろうと太陽暦でやろうと年代のズレは極めて狭小で
あり、 通常では退院歴がどうのこうのは編年には無用の短物である。

古記はよそものの書であるから、これが朝廷で採用されてるとは必ずしも
言えない。オマエは神武の勅の裏切り者であり、記紀の転覆の陰謀を持つ
危険史想を持つ朝敵である。><

神武は、太陽暦であったと主張している。書記の退院歴と文献と考古学に整合させても
考古が狂ってるんでは一応の正解でとはならない。 十年数十年後に、考古は
再三の書き換え書き換えの苦い選択を行うことは十二分に予想され、権威の
無さが露呈される。


462 :観客その2:2012/02/12(日) 10:27:46.80
@畿内には『銅鐸』はあったが『国家』らしい整いは見当たらない。
A畿内には『弥生遺跡』は多くあったが『統治』した形跡は見当たらない。

畿内説は@Aがあるので、目には見えないが・まだ発掘されていないが『緩やかな連合体』
があって、これが『ヤマト王権』だったと言う。
これ、畿内説者の単なる妄想でしょ?これ必死に屁理屈で証明するの疲れるでしょ?

463 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 10:28:47.04
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物[古韓尺の使用=任那より朝貢]

銅鐸祭祀の終焉は、193年崇神5年の飢饉をきっかけとし、
崇神10年のモモソ姫の葬儀は、祭祀が銅鐸から墳墓に移ったことをあらわす。


464 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 10:41:11.62
『ヤマト王権』とゆうよりは

『ヤマトの酋長同盟』

465 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 10:42:23.45
新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[≠崇神5年]

当時畿内に千人もの空腹死寸前の大船舶などなく、日本海の荒波を
超えて半島にたどり着けるなどとは大甘も甚だしく、到底論説として
通用する話ではない。これがオマエの暴走論である。ww
船舶が畿内に始めて成るのは崇神17年であり、出来上がりは当然天皇と
その側近が試乗するのが当然であって、下っ端の農民が乗るのはもっと
後年なのは当たり前であり、宿主の論はいイカサマのデタラメであ〜る。

なお古代史論の暴力装置→秀魔電は、危険史想の温床であるから、充分に
この書に各々方は警戒心を持って対処する必要がある。

この書から、皇宗初代神武を初代景行にスリ換えを行使しさらに記紀成立
ころ日本統一が成った史実を景行時に日本統一されたなどという、ホラ吹き
論をデッチ上げる暴走を生んだイカサマの危険史想書が秀魔電なのである。

466 :観客その2:2012/02/12(日) 10:43:08.59
九州の弥生時代は量・質ともに豊富。地方を統治したと思われる遺跡は
吉武遺跡・安徳遺跡・岡本遺跡・吉野ヶ里遺跡など概ね規模が解ってい
るものだけでも結構多い。
規模不明(遺跡同士のつながりがはっきりしない)遺跡などは福岡平野
〜筑紫・筑後平野?佐賀平野から熊本平野にかけて切れ目なく点在する。

文献が示す邪馬台国も遺跡が示す邪馬台国の勢いも九州説がきわめて有力
であるにもかかわらず『何故畿内説というわけのわからないもの』が生ま
れるのか?これには深いわけがある。


467 :観客その2:2012/02/12(日) 10:48:14.67
今日は天気もいいし遊び行ってくる。

468 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 11:20:36.32
>到底論説として通用する話ではない。

1年が365日の太陽暦が使われていたと主張しても、その数字を書記にあてはめられない事実。
倍暦が使われていたと主張しても、その数字を書記にあてはめられない事実。


469 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 11:21:36.12
準構造船は、弥生初期。中期には確実に存在する。
http://inoues.net/science/war.html


470 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 11:34:58.48
秋津遺跡 (布留1〜2)3世代分の年数 4世紀前半(古墳時代前期)(軽島の明宮)

秋津遺跡は、応神の「軽島の明宮」で説明することはできるが
垂仁・景行・成務では無理がある。
特に垂仁・景行は纒向で説明する必要がある。
纏向は箸墓の築造を以ってゆるやかな衰退期に入る。
だから、箸墓を崇神世で説明すると、垂仁・景行の居場所がなくなる。


471 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 11:47:11.99
>その数字を書記にあてはめられない事実。

オマエは5桁前後の数字を入れてもただこれだけであり、それが各天皇紀の
各年月日のどこにどれだけあてがわれるのかということが出来ず単なる
数字の羅列のみに終始し→具体的にその数字を書紀にあてはめられない事実。

空年が使われていたと主張しても、具体的各数字を書紀にあてはめられない事実。
これがオマエなんだよ。オマエはやってないようだねぇ。ww

つまり裏づけをしないままで数字の羅列だけ、ただそれだけで、具体的に
何年何月何日にその数字列が何処に当てはまるのかを書くことが出来ない。

つまりその数字を書記にあてはめられない事実。
これはコチラの言うセリフなのさ。そうでないなら、やってみい。ww






472 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 12:49:32.17
>つまりその数字を書記にあてはめられない事実。

だから、太国倍年は存在しない。


473 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 12:52:25.84
>つまりその数字を書記にあてはめられない事実。

だから、宿主年は存在しない。



474 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:03:37.46
>>454
>とにかく、銅鐸はいっせいに消滅し、九州の色に塗りつぶされた。

ゴミクズレベル九州説の特に東遷説論者の脳内スト−リー
そもそも埋納のピークが2回はあった事が分かっている。

一斉に消滅?何の事だ阿呆w

「九州の色に塗りつぶされた」と言うのならそもそも古墳文化は発生していない。

副葬品の体系は一つの要素ではあるがそれで古墳文化が成り立つわけではない。

いい加減このキチガイレベルはどうにかならないものか…


475 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:08:14.27
何十年前の論だよww

476 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:18:02.56
>>454 
>もはや否定しようのない段階に至っている。

そもそもその「否定しようのない段階」とは一体何の話だ?

きゅうしゅー勢力に滅ぼされた「銅鐸国家」などと言ういわば「敵役」まででっち上げて作った電波ストーリー
一体どれくらいに普及しているんだ?w

「銅鐸国家」と言うのなら畿内ヤマトを含むその国家の版図はどれくらいで
それを示す銅鐸の形式(菱環〜突線)の分布状況を示す物をきちんと出してもらえないかな?

「国家」と言うぐらいなんだからそこには権力の中心みたいな物が伺えるのかな?

今日日そんな与太をほざいているいるのはここのキチガイ九州説ぐらいだろうw




477 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:23:18.48
>>475
少なくとも日本列島の東西に銅矛と銅鐸の二つの円が描かれた図が教科書に載っていた時代の話なんだろうなw

その図だとまるでその2大勢力各々に中心が存在したかのような印象を与えるw

あのイメージから抜け出せない御老人達の妄想だなwww


478 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:50:50.68
畿内銅鐸国家が、滅んじゃったのは明らかだから、
どう屁理屈つけても邪馬台国は畿内じゃないな。

邪馬台国は1世紀に漢から金印を貰った国の、
後継国だからな。

479 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:52:01.20
あのイメージは今でも生きてるだろ
多少、年代や境界線が不明確になったかもしれんが
おおまかな区別としては今でも有効だろよ

480 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:18:03.42

>>453 こんな感じじゃね?

邪馬台国大喜利                                            ◇       ミ ◇
                                ∧,.∧                   ◇◇   / ̄|  ◇◇
              ∧,,∧              (`・ω・´)                ◇◇ \  |__| ◇◇  
             (´・ω・`)     ∧ ∧     (冫,y,, く)              ∧ ∧  彡 O(,,゚Д゚) /
  /⌒ヽ        (_>cく__)    (*‘ω‘ *)    (________)    /⌒ヽ    (o゚ω゚o )    (  P `O   ∧_,,∧ 
 (ヽ´ω`)  ∬     (________)   く冫y,,cく__)  彡※※※※ミ  (>ω> )   く冫z,,く__)  /彡#_|ミ\  (´・ω・`)※
pく冫y,,く__) 旦   彡※※※※ミ  (________)  .彡※※※※ミ   (__」L_)    (________) .. 彡※※※※ミ  /  J つ※
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|   彡※※※※ミ 彡※※※※ミ 彡※※※※ミ  (________)  彡※※※※ミ 彡※※※※ミ  しー-J ※
TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT
ローガン師匠     ジョーカー    縄文人    唐松山     伊作     夢幻      太国      ドツボ君       


481 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:25:36.45
>>479
だーかーらー あくまで「 分布域 」 としてはだよ。

ちなみに今はあんな綺麗な綺麗な(”中心”の存在を髣髴させる)○じゃなくて
瀬戸内には広形銅剣の分布が描かれているんだろうが


482 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 14:31:05.54
垂仁天皇元年(壬辰前二九)正月戊寅(二)》元年春正月丁丑朔戊寅。皇太子即天皇位。
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)二月丁未(五)》九年春二月癸卯朔丁未。

228/19=12章
仲哀9年が1章の最終年であれば、垂仁元年も同様である。
 
ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ
垂仁元年 秋太陽に遅れがみられる 冬至日を修正。

ホツマを否定しても、ホツマは令解集 古記の太陰暦を支持している。


483 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 14:40:05.52
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と。コチラを口撃していた男
が〜

 偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

コチラは神皇紀 神武の太陽暦を支持している。


484 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:48:27.34
老眼:畿内力A 知識力A 粘着力C 凶器力B
伊作:九州力B 知識力B 粘着力A 凶器力B
縄文:九州力C 知識力B 粘着力B 凶器力C
唐松:畿内力C 知識力B 粘着力A 凶器力A
太国:九州力C 知識力× 粘着力A 凶器力A
夢幻:東北力C 知識力C 粘着力A 凶器力B
奴壺:畿内力C 知識力C 粘着力C 凶器力C
婆札:畿内力B 知識力B 粘着力A 凶器力B
恨節:九州力A 知識力A 粘着力B 凶器力C
朝鮮:朝鮮力B 知識力C 粘着力C 凶器力C
王朝:古田力B 知識力B 年功力A 凶器力C
19歳:畿内力C 知識力C 粘着力B 凶器力C

485 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/12(日) 15:55:43.81
>コチラは神皇紀 神武の太陽暦を支持している。

1年が10ケ月の300日か?
書記の太陰暦は、古記が支持しているが 太国倍年を支持する文献は皆無である。

天皇家を貶めて、卑弥呼を阿蘇の山中に隠しても歴史は解決しない。


486 ::2012/02/12(日) 16:09:29.90
>>453は良いとして・・・(坐ってるポジションが良いというかw)

>>480のローガン、そこは私の坐る席だぜw

>>484の私の評価はもう少しあげてくれw

487 ::2012/02/12(日) 16:27:59.39
午前中は近くの温泉に行って来たんですけど
温泉はやっぱり良いですよね。

で、今年の年始に九州久留米の高良大社とそこの神籠石をみてきたんですが
時間があれば、女山神籠石遺跡とか権現塚古墳、それから岩戸山古墳なんかも
行きたかったんですが、なんせ時間が無い。
レンタカーを借りると24時間で返却しないといけないので
周る箇所が限られてくると思う。
で、この周辺で遺跡を周るとすれば、上記以外になにかお薦めがあれば
誰か教えてくれ。

488 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 16:33:22.92
神皇紀の太陽暦は、神武が支持しているが宿主空年を支持する文献は皆無である。

天皇家を貶めて、卑弥呼を畿内兼九州にぼかしても歴史は解決しない。


神皇紀

 「人皇第一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め 30日を一月とし
  十月を1年と定め給ふ。」


489 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 16:40:01.57
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG
 ↑
上のように1年が365日でないものはこの地球上に厳存する。

490 ::2012/02/12(日) 16:53:55.20
で、で、でーーーーーていつのまにか
口癖になってしまってるんだが・・・・・他の人のレスをみると
みな同じように「で、」から始まってるよねw
私は、昔いた河童氏が言い始めたのを真似したわけじゃないんですが
私も伝播されて、いまみな使ってるようにかんじるw

それはいいとして。。。

倭国大乱の時期に書かれたとされる
中国の、元宝坑村一号墓の羨道付近の石から164点の字磚がみつかっており
「有倭人以時盟不」の刻字されたものが存在する。

これは、本をみると「倭人が時をもって盟することがあるか」と訳してるが
これについて調べたことある人っておるんだろうか?

491 ::2012/02/12(日) 17:12:01.91
↑これは曹操一族の墓といわれてるから
東大寺山古墳の「中平年」銘鉄刀でもそうだが、
卑弥呼の朝献以前に魏と倭人の間で深いつながりが合ったことを伺わせる。

まあ、東夷傳の「序」の部分にもあると思うんだが、
公孫氏により一時的に倭との関係は遮断されていた。
中国の、元宝坑村一号墓のやつなんかは、其面影という具合いにとらえていいんではなかろうか。

492 :観客その2:2012/02/12(日) 17:42:56.25
大宰府周辺の遺跡
○大野城→百間石垣が有名だが、防塁の多くは土塁であり、基礎に石列が存在
 百間石垣部分は水系部分であり土塁よりも石垣作りが妥当
○基肄城→此処は水門の石垣造りが有名だが、やはり防塁の大部分は土塁であ
 りその基底部から巨石が見つかっている。
○宮地岳神籠石(阿志岐城)→1999発見。大宰府を防衛する3つ目の山城
 築城方法は上記2つの山城の同じとみられる。
○上記3つの山城があれば、4つ目の山城があるはずで、その推定位置は、
 水城の西側の小水城の延長線上の観音山あたりと推測される。なお、この
 一帯は中世に城が築城されたり現在は住宅街が広がり、遺跡の発掘は困難。
○安徳台→弥生時代から平安時代の「安徳天皇行宮」までつづく遺跡。上記の
 「4つ目の山城推定位置」西側に存在する大地。同地にある「裂田の溝」は
 「神功皇后記」に現れるが、全体的にみると、付近を流れる那珂川とともに
 「環濠」を形成し、その内側の遺跡郡と合わせてみると「吉野ヶ里遺跡」の
 規模をはるかに上回る。
以上参考までに掲載


493 ::2012/02/12(日) 17:43:26.64
本を読んで
論争に参加すればいいじゃんw

ていうか、書く気がおきねえ・・・てことで誰かよろしく
おれ寝るzzzz・・・

494 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 17:43:38.75
>>474
>そもそも埋納のピークが2回はあった事が分かっている。
おいおい、1回目と2回目、どれだけ離れているんだい?
弥生の中期と終末期? 数百年も離れている話を持ち出しても意味ないな。
終末期、銅鐸は一斉に消えたんだよ。それが問題。

>「九州の色に塗りつぶされた」と言うのならそもそも古墳文化は発生していない。
九州の文化は時代と共に新しいものも加え、発展しているんだ。それが古墳文化を
生み出したんだよ。

>「銅鐸国家」と言うのなら畿内ヤマトを含むその国家の版図はどれくらいで
銅鐸勢力圏には国がなかったとでも? 学者は多元的国家とか専制国家とか論
じてるじゃないか? 知らんのか?



495 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:27:08.39
>>494 ゴミ(内容から言うとsssか日向厨か?

>九州の文化は時代と共に新しいものも加え、発展しているんだ。それが古墳文化を
>生み出したんだよ。

だったら古墳文化は先ず九州で開花するべき。
それとも東遷しなかった

要は都合のいい共通部分は「それこそ東遷の証だ!」と言い
他地域の要素は「新たにインポートした」と言うご都合主義。

>銅鐸勢力圏には国がなかったとでも?

アホか?
そりゃクニグニがあったに決まっている。

ある文化圏と言うべき物の中にクニグニがあった事と
その威信材なり祭器を共通としその分布に重ね合わせられるような版図を持った「国家」があったと言うのは別の話だ阿呆。






496 :横だが:2012/02/12(日) 18:33:16.70
>>494

> >そもそも埋納のピークが2回はあった事が分かっている。
> おいおい、1回目と2回目、どれだけ離れているんだい?
> 弥生の中期と終末期? 数百年も離れている話を持ち出しても意味ないな。
> 終末期、銅鐸は一斉に消えたんだよ。それが問題。

一斉に消えたわけじゃないだろ。
二回目だって吉備・畿内とその他の地域じゃ時間差があるし、吉備や畿内で埋納されたわけじゃない。

> >「九州の色に塗りつぶされた」と言うのならそもそも古墳文化は発生していない。
> 九州の文化は時代と共に新しいものも加え、発展しているんだ。それが古墳文化を
> 生み出したんだよ。

文化ってそういうもんだろうw
どこの地域でも同じだ。
ただ、畿内は九州から直接影響を受けたわけじゃない。
吉備や東瀬戸内が九州から受け入れ、一旦昇華したものを再受け入れしている。
墳丘墓は吉備から、銅鏡や朱の嗜好も吉備に根付いたものを取り入れたわけで九州直接ではないだろう。

> >「銅鐸国家」と言うのなら畿内ヤマトを含むその国家の版図はどれくらいで
> 銅鐸勢力圏には国がなかったとでも? 学者は多元的国家とか専制国家とか論
> じてるじゃないか? 知らんのか?

ハァ?
意味不だね。
何が言いたいのか自分でもわかってないみたいだねw


497 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:45:35.72
>>495
古墳って何だ?
一説によると、近畿地方で出来たものが古墳で、それ以前のものは墳丘墓と
言うらしいが。それこそご都合主義だろう。

498 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:47:22.13
>>496
結局、近畿地方で生まれた古墳文化は何もないってことか?

499 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:48:41.69
まあ「銅鐸国家」なんて語やその概念も含め
こんなところのキチガイ九州説からでしか聞くことのできないシロモノだなwww

「国家」とか大層な事を言っておいて誰もその概要を説明できない。

例えば加茂岩倉や荒神谷で出ている外縁付鈕式は大阪・奈良でも出ているが出土数からすれば
出雲がその中心で近畿にまで版図を広げた「国家」なのか?
それとも出雲と畿内は別か?
荒神谷の銅剣はどういう意味になる?

要は東征劇を演出する為に作られたネタでしかないwwwwwwwww



500 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:55:44.28
>>499
漢書・地理志には、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」とある。
この百余国の中には近畿地方は入っていないんじゃないか?
ひょっとして、倭人伝に書かれている三十国にも入っていなかったりして。

501 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:59:10.79
そもそも「銅鐸国家」なんて与太をほざいているゴミクズレベル九州説は
後の古墳や神獣鏡が広がる地域を一つの国家としてみるのか?

例え畿内ヤマトが東征勢力の後裔であろうと九州が畿内ヤマトに併呑されたのを認めるんだろうな?w

「銅鐸国」があるなら「古墳国」もあるんだろうな?www

まあここら辺が平気でダブスタやるのがゴミクズレベル九州説wwwwww


502 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:01:49.32
>>501
畿内ヤマトが九州を飲み込むのは有りでも、九州が畿内を飲み込むのは
絶対になしかえ。

503 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:05:37.47
>>502
それは「畿内ヤマトが九州を飲み込んだ」とその中身を武力による平定劇を言っている人間に言ってくれw





504 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:30:42.70
>>495
>だったら古墳文化は先ず九州で開花するべき。
そんな法則はないな。かってな思い込みだね。京都の文化が江戸で新たな
発展をする、いくらでもあることだ。

>要は都合のいい共通部分は「それこそ東遷の証だ!」と言い
残念ながら、私は東遷説ではない。

>威信材なり祭器を共通としその分布に重ね合わせられるような版図を持った
>「国家」があったと言うのは別の話だ
誰の話をしてるんだ? 分布に合わせた版図などと一言も言ったことはないが。
そう言えば、君がそんな馬鹿な話をしていたな。



505 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:30:53.44
神武のストーリーでは既に九州勢力の同族系が畿内にいるよね
そしてその国がそれまでの畿内の盟主を倒した後九州勢力を取り込んでるね


506 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:31:55.87
>>496
>二回目だって吉備・畿内とその他の地域じゃ時間差があるし、吉備や畿内で埋納されたわけじゃない。
ほう、どの程度の時間差があるのかな? その証拠は?

>文化ってそういうもんだろうwどこの地域でも同じだ。
同意するというわけね。結構、結構。

>吉備や東瀬戸内が九州から受け入れ、一旦昇華したものを再受け入れしている。
>墳丘墓は吉備から、銅鏡や朱の嗜好も吉備に根付いたものを取り入れたわけで九州直接ではないだろう。
九州勢力がまずは東瀬戸内に入り、次に吉備と、徐々に畿内に迫ってきたってことだね。

>ハァ? 意味不だね。
もうちょっと勉強しな。そしたら分かる。



507 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:32:20.31
畿内が九州を飲み込んだのは秀吉の九州征伐が実質最初じゃね
戦国時代までの九州は強力な独立地域のように思えるが
結局江戸幕府さえ完全に制服できず維新で九州勢に倒されたよな

508 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:39:15.14
>>504
>京都の文化が江戸で新たな発展をする、いくらでもあることだ。

そう京の「 文化 」が江戸に伝わったように
九州の文化が畿内ヤマトに伝わっただけだw

>誰の話をしてるんだ? 分布に合わせた版図などと一言も言ったことはないが。

立ち居地の良く分からない奴だな。

単に銅鐸文化の分布域にクニグニがあったと言う話なら
それはもう「銅鐸国家」などと言う物ではないだろうに。

まあ何れにせよ「銅鐸国家」なんて語もその概念も中学生の歴史教科書にすらも載っていない ゲラ
東遷説に固執するゴミクズレベル九州説がほざくだけの与太話。








509 :横だが:2012/02/12(日) 19:50:43.18
>>498

> 結局、近畿地方で生まれた古墳文化は何もないってことか?

そう言う考え方も有りかもな。
「前方後円墳」と言う墳型自体も東瀬戸内で原型が出来あがって、王権の制度に組み込まれることで「定型化」したわけだから。
ただ、舟型木棺とか、小型丸底土器の供献様式とか、細かいことを言えばキリが無くなる。

それに九州だって、甕棺墓制と銅矛祭祀は何とか独自発達と言えるかもしれんが、その他の文化はストレートな輸入品だろう。




510 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:58:48.63
>京の「 文化 」が江戸に伝わったように
>九州の文化が畿内ヤマトに伝わっただけだw
京と江戸は同一の国の中の話だけど、九州と畿内はまったく別だからな。
自国の長年の習慣を捨てて、他国の習慣を全面的に受け入れるというのはそれ
なりの理由があったはず。その理由は何だ? 被征服国の悲哀だね。





>それはもう「銅鐸国家」などと言う物ではないだろうに。
銅鐸勢力圏の国なんぞといちいち言う必要もないと思うが。
そんなに気になるなら、君が使わなければいいだけのことだ。
で、私が使ったことはあったかな?



511 :横だが:2012/02/12(日) 20:03:03.67
>>510

> 自国の長年の習慣を捨てて、他国の習慣を全面的に受け入れるというのはそれ
> なりの理由があったはず。その理由は何だ? 被征服国の悲哀だね。

つまり、畿内は九州の甕棺も銅矛も受け入れてないから、東征、東遷は無かったと言う主張なのかなw


512 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:16:25.93
いいや、畿内は九州に征服されたが、九州の都が遷ってきたわけではないってことだよ。
甕棺や銅矛は、九州が畿内を征服する前に過去の物となっただけだ。

513 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:18:21.72
>>510 
>他国の習慣を全面的に受け入れるというのはそれなりの理由があったはず。その理由は何だ? 被征服国の悲哀だね。

最強の九州が畿内ヤマトを征服したんだ!ってか?w下らない。
銅鏡の副葬をもって九州に征服されたなら
特殊器台の登場は吉備に征服されたのか? ゲラ

外の文化を自主的・積極的に取り入れるのは
明治以後西洋文化を積極的に取り入れた日本を例に挙げるまでも無くままあること。

それを一々征服劇に結びつけるのがここのゴミクズレベル九州説のアホどもw

514 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:27:26.54
まあここのゴミクズレベル九州説が支離滅裂なのは

東遷勢力が滅ぼした敵役としては「銅鐸国」なんて物をほざくが

他方ではそもそも畿内ヤマトには王権構造を持った「クニ」と呼べるような物も無く
それこそ人影もまばらな荒野と平気でほざく。

銅鐸の分布に国家を見るのであれば神獣鏡や古墳の出現は九州も飲み込んだ国家の出現と言うことになる
(三角縁神獣鏡は同笵同型の分類によりその分与関係・流通経路がかなりはっきりしている)

…が大概はそれを認めない、とここでも行き当たりばったり。

要は「九州が畿内ヤマトの後塵を拝するのは我慢ならない!」とファビョっているだけwwwwwwww
幼稚極まりない思考。





515 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:33:41.84
>>512
>甕棺や銅矛は、九州が畿内を征服する前に過去の物となっただけだ。

でその九州から無敵の神武軍団が畿内ヤマトにやってきた時は既に
銅鐸文化のピークは過ぎていたと言うオチw

ハイ残念だったなwww


516 ::2012/02/12(日) 20:42:29.98
>381のsssの記事>>381
>新羅・百済の建国は、それぞれ356年、346年なので神功皇后の時代はそれ以降と
>考えなくてはならない。
>3世紀前半の卑弥呼の時代とはかなりのずれがある。

これは良い記事ですな。
朝鮮とかメモしといたほうがいいんじゃね?w


517 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:47:15.51
しかしこの「銅鐸国家」なんてのはゴミクズレベル九州説のピンポンダッシュネタの代表的な一つだなw

じゃあその「国家」とやらの範囲やその中心、それをどのような銅鐸の形式の分布によって示せるのかと訊いても
誰も答えられるわけじゃない。

あるのは
「九州勢力が銅鐸勢力を滅ぼした」
と言う脳内ストーリーだけw




518 :横だが:2012/02/12(日) 20:47:28.20
>>512
> いいや、畿内は九州に征服されたが、九州の都が遷ってきたわけではないってことだよ。
> 甕棺や銅矛は、九州が畿内を征服する前に過去の物となっただけだ。

じゃ、畿内を征服した九州人は何を持ってきたのかな?
墓制で有れば、流行したての箱式石棺、これは重いから九州に置いてきたとして何を?
それが銅鏡だと言うなら、方格規矩鏡、内行花文鏡にならないといけないんじゃないのかな?
既に水銀朱は、畿内でも知れているし、征服者さん達は何も手土産を持ってこれなかったのか?

519 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:55:46.15
手土産はもう食べてしまいました。

520 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 21:00:07.87
>>518
>それが銅鏡だと言うなら、方格規矩鏡、内行花文鏡にならないといけないんじゃないのかな?

まあ「無敵の九州鉄器軍団」が最初に持ち込んだ鏡の候補としては(漢鏡ではないが)「多紐細文鏡」もあるなwwwwww

ただこれだと 吉武高木遺跡(弥生前期末から中期初頭)からも出ているから
連中が考える「九州勢力が銅鐸勢力を駆逐した時期」に合わないかもしれないwwww

これをあくまでレアケースとして片付けるにしても別に銅鏡を入手できたなら
せっかく労力を費やして築いた墓に副葬する発想は普通に出てくるという証左にはなるんじゃないかな?w

銅鐸はそもそも墓に入れるものじゃないから選択肢の中に入っていないわけでwwww

521 :メ(スポーツ):2012/02/12(日) 21:01:12.06
>日本書紀の編者が、倭人伝の記録を挿入したくなったのもわかるというもの。

これは記紀の編纂者が意図的にそうしたっていうのが一般的な考え。
で、記紀では神武即位を紀元前660年と指してるので明治の歴史学者
那珂 通世が、神武天皇の即位年を計算し、神武天皇即位紀元を各歴史書で紹介した。
(元朝秘史?成吉思汗実録?)


522 :メ(スポーツ):2012/02/12(日) 21:07:25.20
>>417
>神武の即位が紀元前660年だということは、記紀のどこにも書いてないわけで、
>学者が、記紀の干支や天皇の寿命から単純に計算しただけである。

朝鮮はくだらんなw
西暦ていうのは、ずっと後代になって使われだしたので、
この当時にBC660なんて記録は無いのは分かりきってるだろう。
しかし、記紀は、明らかにBC660年を指してるよね。

朝鮮って『記紀を信じろ』言ってるわりに〜記紀についてどれだけ知ってるの?て聞きたい。
ていうか、本当はマンガ系のやつwを立ち読みした程度じゃないの?
本もってる?

523 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/12(日) 21:59:57.91
>しかし、記紀は、明らかにBC660年を指してるよね。

いや、全然指してないぞ。どこにそんなことが書いてある? このバカタレが!

正直言うと、私は古代史本は一冊も持っていないw 倭人伝の文庫本すら持っていないw
記紀さえ、実はまともに読んだことはない。そろそろじっくり読む必要があるかな、と思っているところだww

しかし読まなくても、君らと違って頭がいいから、卑弥呼が朝鮮にいたことが分かるのだ。
君らは死ぬまで分かるまい(爆笑)

524 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:01:41.35
>>517
銅鐸勢力の国がどうだったか、どうでもいいことだ。
九州勢力に対抗し得る強国がなければ、それでジ・エンド。


525 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:03:16.63
>畿内を征服した九州人は何を持ってきたのかな?
古墳文化を持ち込んだんだよ。古墳文化の全て。分かった?


526 :志紀:2012/02/12(日) 22:12:09.89
「古墳」という概念そのものも「土器編年」と同じで崩れてきているので、必死に「古墳編年」なんてあちこちで
研究会してる連中は、何を焦ってるんだかw

九州の石塚山
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
那珂八幡
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
川部・高森
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E9%83%A8%E3%83%BB%E9%AB%98%E6%A3%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

銅鐸が巨大化したからって誰も畿内で出現したと思ってない。その祖形は中国にある事を知っているからね。

巨大化したからそこが発生地とは限らない。横穴式石室、吉武K7号墳のような彩色壁画、その他九州から広がって行った
ものは多い。それを不勉強な職業ギルド学者が無内容・無規定・無批判に「ヤマト政権の拡大と前方後円墳」とやってしまう。
国家群の姿も分かっていない畿内の2、3世紀をなんで「初期ヤマト政権」などと言う大雑把な言葉でくくろうとするのか。
そもそも前方後円墳が何を意味しているのかすら何も分かっていない現状、ただシロアリが巣を営々作り続けるように「編年」
などとやっている学者は学者と呼ばれる資格はないな。


527 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/12(日) 22:12:49.09
やたらと銅鐸論争が続いているが、銅鐸の年代なんてどうして分かるんだ?
それに、銅鐸とは何かも分かっていないのに、そんな論争をしても仕方なかろう。

記紀に書いてある通り、神武以来、天皇が大和にいて、日本を治めていたのだよ。
邪馬台国東遷とか九州王朝なんて、幻想なのだよ。

かといって卑弥呼が畿内にいたわけでもない。
記紀には倭国大乱も卑弥呼も書かれていないから、畿内のことではないことも確かなのだよ。

528 :志紀:2012/02/12(日) 22:18:34.98
523 名前: 卑弥呼は朝鮮にいた 投稿日: 2012/02/12(日) 21:59:57.91
>しかし、記紀は、明らかにBC660年を指してるよね。

いや、全然指してないぞ。どこにそんなことが書いてある? このバカタレが!

正直言うと、私は古代史本は一冊も持っていないw 倭人伝の文庫本すら持っていないw
記紀さえ、実はまともに読んだことはない。そろそろじっくり読む必要があるかな、と思っているところだww

しかし読まなくても、君らと違って頭がいいから、卑弥呼が朝鮮にいたことが分かるのだ。
君らは死ぬまで分かるまい(爆笑)


529 :観客その2:2012/02/12(日) 22:22:05.56
>>528
<卑弥呼は朝鮮>など相手にしてはいけない。

530 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:27:30.70
>>526 死期(の近い爺さん
>ただシロアリが巣を営々作り続けるように「編年」などとやっている学者は学者と呼ばれる資格はないな。

こいつも何を言っているのか意味が分からんなw

それが何を意味するのかを考えるにしても先ず発掘された物を分類し系統ごと、あるいは時系列で並べて整理しなければ始まらないと思うのだが?w
そりゃ傍から見ればそれこそシロアリの巣作りのような作業だと思うがw

こいつの考える「学者」と呼ばれるに足る資格を持つ学者って一体何をするんだ?www




531 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:29:53.43
卑弥呼はいたかしらんが、加優呼なら馬韓にいたよ

532 :志紀:2012/02/12(日) 22:32:06.69
お前は死ねよチンカス

533 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:32:34.19
熹平中(172-178) 伯固乞屬玄菟 公孫度(-204)之雄海東也 伯固遣大加優居

伯固は高句麗王ですけど


534 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:33:56.11
土器編年事態に意味はあると思うが、
いつのまにか、土器編年至上主義になるのが、
問題なんだな。

535 :横だが:2012/02/12(日) 22:38:04.63
>>525
> >畿内を征服した九州人は何を持ってきたのかな?
> 古墳文化を持ち込んだんだよ。古墳文化の全て。分かった?

と、言うとですね。
前方後円墳は九州発祥。
布留式祭祀土器も九州発祥。
神獣鏡嗜好も九州発祥。
舟形木棺も九州発祥。
円筒埴輪も九州発祥。

そう言う主張なんですね。

536 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:38:29.64
土器編年はおよその目安ぐらいにしかならんよ。数十年ぐらい何時でも動く。

537 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/12(日) 22:39:22.44
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kyusyune/koga0201.html

538 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:42:03.65
>>535
別に。文化を持ち込んだと言ったろ。
持ち込んだ先で初めて作ったものもあるだろう。

539 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:43:50.77
>>518

> 甕棺や銅矛は、九州が畿内を征服する前に過去の物となっただけだ

と言うと、畿内の銅鐸勢力が九州に滅ぼされたように
九州の甕棺・銅矛勢力もどこぞの勢力に滅ぼされたわけですね。
なかなかな御卓見ですね。

それはどこの勢力だとお考えですか?


540 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:46:37.12
土器編年による相対年代も否定する
理化学的年代測定による絶対年代も否定する
きゅーしゅーせつに都合の悪い物は全て否定するw

でもな、それらを全て否定しても九州説が息を吹き返すわけじゃないんだよwwwww

541 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:48:39.93
>>539
別に卓見とは思わんね。倭人伝が書いているとおりだ。
完全に滅ぼしたというわけではあるまいが、南九州が北九州に勝ったんだよ。

542 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:52:45.82
出ました「九州南北戦争ストーリー」wwww

543 :横だが:2012/02/12(日) 22:54:04.01
>>538

> 別に。文化を持ち込んだと言ったろ。
> 持ち込んだ先で初めて作ったものもあるだろう。

前方後円墳は、吉備の大型墳丘墓からの遷移。
布留式土器は河内の庄内式が母体で、その庄内は吉備のインスパイア物。
神獣鏡は、楽浪方面からだろうが、九州はほぼスルー状態。
円筒埴輪は、吉備北部発祥で東瀬戸内をゆるやかに東遷。

みな、ルーツは九州以外で、わざわざ九州様が東遷してこなくても良いかと思うんだけど。
どんな「文化」を持ちこんで「何」を初めて作ったのw


544 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:55:43.80
東遷厨涙目wwww

545 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:58:08.05
>>499

加茂、岩倉という地名は京都市の北部にもあり、市の中心部を流れている賀茂川は有名。
京都市の北部には出雲氏という氏族が住んでいて出雲路などの地名が今でも残っている。

546 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 22:59:06.02
東遷なんて言ってないぜ。未開地へ東遷するメリットはないだろう。

547 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:00:24.60
俺は九州説だが、
九州が畿内を支配制服するようなストーリーは余り取らんな。
そりゃ、小勢力が移り住むくらいのことはあってもいいだろうが。


548 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:05:50.71
九州勢力が、各地の土人集めて、畿内に入植させたわけでしょ。
こいつらには鉄器すら与えずに、水田を造らせた。
九州でいい暮らししてる奴らは、畿内になんか行かないよ。

549 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:06:00.52
>>546
> 東遷なんて言ってないぜ。未開地へ東遷するメリットはないだろう。

じゃ、西か南か北か?
どこに遷ったって主張なの?
九州から畿内ならどう見ても東だがな。
あー、東は南の誤りとか言う珍説でもはじめるつもりかwww

それとも「遷った」では無くて、「文化」の伝道にだけ行ったのか?
何を伝道したんだかも答えられないみたいだがwwww

550 :志紀:2012/02/12(日) 23:06:57.54
>>543
一貫して物の話ですね。
でも、九州発のものは注意深く外してある。

そういう陰湿さがいやなんですよ、畿内説の人のね。

551 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:08:19.99
まああれだわ

敵に追われて8割がたも大量にこぞって民族大移動とかすれば

東遷とか征服したとか見えないことも無いよね

敵ってゆうのは唐のことだけどさ

552 :sss:2012/02/12(日) 23:10:54.22
>>539
そういうのを相殺の詭弁というのだよ。
畿内説は、南にそんなに進んだら東シナ海に出てしまう、だから南は東の
間違いだ、から始まって相殺の詭弁だらけだ。

甕棺の場合は盛衰に非常に地域差がある。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
始まった時期も使用しなくなった時期も地域によって大きな差がある。
銅鐸と一緒には出来ない。

銅矛の場合も、記紀のしょっ鼻に天沼矛などが登場してきて、矛が大和朝廷に
とって重要な役割を果たしていたのがわかる。逆に銅鐸は記紀に全く登場
しない。大和朝廷とは異質な文化だったことがわかる。

それに、銅鐸には宗教的な意味合いがあると考えられる。こういうのは
征服者がいたとしたら最も嫌うもの。
記紀の重要なモチーフとして「神武東征」がある。文献的にも銅鐸消滅には
十分に妥当性があることになる。

553 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:11:52.91
>>550

> 一貫して物の話ですね。
> でも、九州発のものは注意深く外してある。
>
> そういう陰湿さがいやなんですよ、畿内説の人のね。

じゃ、貴方が代って説明してください。
九州が畿内に初めて持ち込んだ「文化」って何ですか。
先ほどまで頑張っていた人は、文化、文化と言うだけで、こっちに具体的なイメージが見えるような話がでてこないのですよ。

554 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:14:46.74
つか3世紀の東征とか東遷というやつは歴史センスなくね
景行から応神までは政治の中心が九州にあっても不思議じゃない
半島に軍事的にちょっかいを出すために

555 :sss:2012/02/12(日) 23:17:33.68
東遷の根拠にはいろいろあるが、例えば古事記の記述がある。
神武天皇に随行してきた大久米命は顔に刺青をしていた。
それを見て、三輪山の付近に住んでいた五十鈴姫は奇妙に思う。

つまり、東征してきた人々は刺青をしており、大和周辺ではその習慣は
なかったとこになる。大和周辺でなかった習慣について書かれて
いるということは、刺青が本当だったことになる。

刺青といえば、倭人伝には「男子無大小皆黥面文身」と書かれている。
つまり、東征も邪馬台国九州説も真実味がある。
ついでに古事記の信頼性も高いことがわかる。

556 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:18:42.59
>>549
何を考えてんのかね。動かないんだよ。九州勢力は九州に本拠を置いたまま
本州を征服していったというだけのこと。

>>548
時代を考えよう。公孫氏が敗れて行き場を失った時代だ。その残党がどっと倭国へ
逃げ込んできたとしよう。九州では収容しきれない。そこで、その戦いに慣れた
連中を使って本州征伐をやる。農業祭祀の戦いとはあまり縁ない連中相手だ。無人
の野を行くようなもんだろう。


557 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:23:29.48
>>552

> 甕棺の場合は盛衰に非常に地域差がある。
> http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
> 始まった時期も使用しなくなった時期も地域によって大きな差がある。
> 銅鐸と一緒には出来ない。

だったら銅鐸も同じでしょう。
製作地も九州から遠江まで地域制をもって分散してるし、
消滅も大略的には西から東にかけて時期を異にする。
最後まで残った近江以東で製造が続いている時期に、既に近畿方面では原初的な首長霊祭祀が始まっている。
貴見には事実誤認がありますね。

558 :sss:2012/02/12(日) 23:24:23.82
また、以前書いたが、三雲南小路遺跡の甕棺の副葬品は、

前漢鏡、35面、銅剣、1 銅矛、2 銅戈、1 ガラス勾玉、3個
などとなっている。これは2000年前の弥生中期と考えられる。

これが古墳時代になるとだいたいそっくり大和周辺の古墳にも見られる。
しかし、大和周辺の弥生時代ではこのようなものは全く見られない。

また、皇室に伝わる三種の神器もそのまま弥生時代の九州で見られるもの。

墳丘墓も例えば吉野ヶ里遺跡では紀元前から見られる。首長墓の元祖と
いえる。これらは近畿地方の弥生時代には見られない。古墳時代が
九州の影響を強く受けているのは確か。

559 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:26:51.82
>>556

> 何を考えてんのかね。動かないんだよ。九州勢力は九州に本拠を置いたまま
> 本州を征服していったというだけのこと。

つまり、征服した先で巨大古墳を作りまくったわけですね。
で、本家ではつつましやかに土抗墓などが流行しだしたわけですねw

560 :sss:2012/02/12(日) 23:30:35.50
>>557
銅鐸は妙な最期を迎えている。人里離れたところに埋められていたり、
叩き壊されたりしている。
そして、古墳時代になると全く消滅してしまう。記紀にも記述がない。

同じ頃に、弥生近畿は劇的に変化して古墳時代を迎える。甕棺の場合は
同じ文化の中で消滅したりしているが、銅鐸は他の劇的な変化の中に
あるのが異なる。

561 :sss:2012/02/12(日) 23:34:38.80
>>559
それはありえること。他の地域を征服すると余剰な労働力を手に入れることが
出来る。忠誠心の証として大きな土木事業に繰り出すことは良くあること。

仁徳天皇のところなどにも○○が朝貢してきたので、○○をやらせたというような
記述が多く見られる。確か、日本書紀には河内湖の灌漑は蝦夷にやらせたと
書かれていたと思う。

562 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:34:44.42
>>558

> 墳丘墓も例えば吉野ヶ里遺跡では紀元前から見られる。首長墓の元祖と
> いえる。これらは近畿地方の弥生時代には見られない。古墳時代が
> 九州の影響を強く受けているのは確か。

吉野ヶ里の北墳丘墓は、いわゆる「首長墓」には当たらないですね。
強いて言えば「特定家族墓」、ここの甕棺の副葬品レベルであれば、出雲や四隅や畿内の方形周溝墓の一部に認められます。
墳墓としての性格は、吉野ヶ里も出雲も畿内もほぼ同じで、盾築に始まる吉備の墳丘型首長墓とは系統を異にしますね。


563 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:39:10.48
>>561

じゃ、大和王権は何時ごろ誕生したんですか?
九州勢が古墳を作りまくって、息絶えた後に突然出現したんですかw
貴方の歴史観と言うことが、まったく見えてこない、つーか、後先考えずにテキトーに反論めいたことを宣たまってるだけかとW

564 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:39:20.75
また馬鹿九州説の夢物語が始まったか

565 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:39:26.57
>>558 sss
>また、皇室に伝わる三種の神器もそのまま弥生時代の九州で見られるもの。

そそもそも「三種の神器」は皇位継承の証として受け継がれるレガリアであって副葬品じゃないw

東遷説論者の言う「三種の神器」とは副葬品の中にたまたまその3つが見られると言う事であって
それが特別の意味を持って組み合わされていると言う根拠は何処にも無い。

「玉」なら勾玉も管玉も一緒くた。片刃の刀も両刃の剣も「剣」。
平原なら刀剣類は一本だッたと思うが伊都国王墓と言われるものの中にはその3種が揃わない物もある。

銅矛や銅鐸のように編年してその形や大きさ、組み合わせ方の時代ごとの変遷
地域的な広がりを論じた物は今まで見た事も無い。

「銅鐸国家」ならぬ「三種の神器国家」とは九州の何処にあったんだ?w

はっきり言って中身の無いイメージだけが先行しているネタだが
(畿内説の)考古学者でも安易に「三種の神器」とか言うもんだから困ったもんだとwww


566 :sss:2012/02/12(日) 23:39:30.35
>>562
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は王族の墓といわれる。
漢書・地理志にも倭は分かれて百余国とあるから、弥生中期あたりから
王がいた人は確かだろう。

567 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:44:14.48
>>559
ははは、本家が大きな墓を造るはずだって? 素人らしい浅はかな考えだ。

>>561
同意。巨大古墳を造ることは、普通ならば労働力の無駄使い。しかし、征服地ならば
労働力もあるだろうし、それを造り力を見せつけることで、反抗を封じ込めることも
できる。実際に戦って力で屈服させるよりも、山をも造るという力を見せつけ服従させ
る方がずっと安上がりだ。

568 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:45:51.52
>>566

そう、王族の墓(特定家族墓)です。
だから、古墳とは性格を異にする墳墓だと言っているのですよ。
古墳の原型は盾築、そして盾築の原型が北部九州の王墓(特定個人墓)。
特定個人墓と言う祭祀形態は、行き成り九州から来たわけではなく、数百年の時を隔てて序々に伝播してきたのですね。

569 :sss:2012/02/12(日) 23:46:56.63
>>563
大和王権というのは畿内説的な考え方。
記紀にある神武東征を全く考えないような人が大和王権という言葉を口にする。

邪馬台国が畿内にあり、それをゆるやかな連合政権のように捉える。
その連合が卑弥呼の後も続き、これを大和王権という。これが7世紀とか
8世紀になって大和朝廷と呼ばれる律令国家になると考える。

邪馬台国が九州にあったと考え、その勢力が大和朝廷を築いたとする
考えとはどうしても違うものになる。こちらの方が皇室の歴史書といわれる
古事記や日本書紀の記述と合致する。

570 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:48:23.10
>>567

笑ってないで、大和王権の出現時期を何処に置いてるのか答えて下さい。
答えられないから笑うしかないのですか

571 :sss:2012/02/12(日) 23:50:51.00
>>568
だから、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は古墳の前の段階と考えられる。
少なくとも、近畿地方には古墳の前段階になるものは見られない。
楯築も同じ。それ以前からそのようなものが吉備にあったわけではない。

これも神武東征の一環と考えることも可能。
記紀には、神武天皇が吉備に長く留まっていたことが書かれている。
古事記によると8年。日本書紀では3年となっている。

572 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:51:38.36
九州北部に都なんてあったら、あっという間に朝鮮に侵略される

573 :sss:2012/02/12(日) 23:53:28.05
>>565
少なくとも、近畿地方とは無縁のものだろう。
鏡、剣、勾玉、いかにも九州の文化的なにおいがする。

近畿地方であれだけ発展した銅鐸は跡形もなく消滅してしまったんだし。

574 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:54:42.20
>>570
そんな質問された覚えはなかったが。
九州に本拠を置いたままで、本州を征服したといっただろ。そのまま、何百年
も過ぎたんだよ。となれば、九州も植民地たる本州も同じ倭国の内ということ
になる。それから、何かの都合で首都を畿内にしただけだろ。
自国内で都をどこに置こうが何の問題もない。いつでも動かせる。

575 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:55:07.83
>>571

だから、神武さんは何時ごろヤマトに来たんですか?
古墳時代開始の前なんですか?後あんですか?
何で答えられないのかな?

576 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:56:17.30
>>574

だから「いつ」なのw
何で答えられないのw

577 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:59:26.59
>>575-576

古墳祭祀と九州の不連続性は東遷厨も内心では認識してるんだよ。
だけど、それを認めると自説に不都合が多すぎるので「認め」られないわけだw

578 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:06:08.89
>>571 sss
>だから、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は古墳の前の段階と考えられる。

で吉野ヶ里に現れたのは前方後方墳なわけだがw

畿内ヤマトに九州やってきたおのぼりさん連中が九州の墓制を独自に発展させたとして
九州に残った絞りカスの連中はそこから何らかの発展をさせたのかな?

「前の段階」と言うのなら九州でも「後の段階」があって然るべきだと思うがw

だったらいっそ九州は畿内ヤマトに討ち滅ぼされて
その時畿内ヤマトが九州から「古墳の前の段階」を持ち帰ったとした方が辻褄が合うなwww

579 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:16:22.79
>>576
答えてるだろ。良く読め。

580 :sss:2012/02/13(月) 00:18:53.17
>>578
古墳は権威の象徴みたいなものだから、権威の確立している地元では
それほどのものは必要ない。しかし、征服した土地にいった場合には
権威を確かなものにするために古墳造営の強制労働という手段がありえる。

だから、大きな古墳を作る大王は、拡大しつつある王といえるかも。
大和朝廷も力を持ってきてもそれが確立されてしまえば墓は小さくなったりする。

581 :sss:2012/02/13(月) 00:22:44.85
>>575
個人的な考えを言うと、神武東征は4世紀になってからではないかと思う。
布留式土器の時代と一致するのではないかと思う。
庄内式は、日本書紀にある饒速日命と関連性があると思う。

582 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:37:26.64
>>579

> 答えてるだろ。良く読め。

「いつでも」が答え?
「いつ」かが知りたいんだけど。

583 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:45:18.42
>>581

そんなに無茶苦茶な時代観じゃないですね。
失礼しました。
論点は、庄内や布留への実年代の比定と言うことですな。



584 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:56:36.50
>>582
本州を征服し、そのまま、何百年も過ぎたと書いてるだろうが。
隋の使者が訪ねた相手は、推古天皇じゃなかっただろ。それより後だよ。

585 :志紀:2012/02/13(月) 06:19:03.21
>>582
あのなあ。じゃあお前の言う「ヤマト王権」ってなんだよ?
それを規定してから言えよ。
例えば、神武記で、優勢な鉄器を保有しているはずなのに惨めな敗北を喫し、兄達が死に、
最後裏切りを誘導してようやく奈良盆地南部に拠点を得る。しかしながらその実態が「王権」
に相応しい規模と内容を有していたのかどうかわからないし、祟神との整合性も不明、或い
は新勢力に滅ぼされた可能性もある。これは応神も継体も同じで、これらを同一王権の系
譜と位置付けて良いかという事さえ確定していない。

細石が巌となるくらいずっと過去から「ヤマト=現天皇家」という単一・単調な歴史観が前提
にあるからそういう質問が出てくるんだよ。
クニの発生〜騒乱〜エリアの統合〜大統一、そのプロセスを明らかにするのが歴史学の
仕事であって、問題は畿内はそれが良くわからないという事だ。
まあ、確かに「モモソ」「ホケノヤマ」「ハシハカ」だけ言ってればいい奴は楽だろうね。

586 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 06:26:15.72
九州なんてもっとわからんだろ

587 :志紀:2012/02/13(月) 06:29:59.99
なわけないw
例えば↓のようなのがいらんだけや。コテもないし、なんか言えやと。

54 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/02/05(日) 23:32:59.30
九州説はサギだからしょうがない。

326 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/02/10(金) 00:08:06.38
卑弥呼=モモソヒメ

卑弥呼の墓=箸墓

これで決まりだな。

385 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/02/11(土) 01:20:04.50
邪馬台国は畿内なんだから、余計なこと考えてても人生の無駄だよ。

606 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/02/13(月) 03:42:51.62
>>592
九州説じゃないと面白くないだけだろ


588 :志紀:2012/02/13(月) 06:30:27.79
誤爆w スマソ

589 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 07:27:46.69
本当、九州なら畿内以上に整合性ないのに。

590 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 07:39:26.21
大和朝廷にとって九州で記録が少ない領域はどこだ?

591 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 07:58:16.51
長崎とか?


592 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 09:11:59.93
>>552
古事記最古の写本では、天沼矛は天沼弟、八千矛神は八千弟神となっているのです。
本居宣長が勝手に弟を矛に改竄したのです。気を付けましょう。
>>566
漢書地理志に百余国とある倭は、渤海周辺か韓半島の倭です。
>>573
鏡、剣、勾玉。すべて神代から神話に登場する物であって、九州の文化ではない。
日本民族の文化でもなく、鏡信仰は契丹古伝にも書かれている、しかも冒頭に。
>>581>>583
無茶苦茶な年代観である。そんな年代観を抱いているから君らはダメなのである。

593 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 10:50:09.87
>無茶苦茶な年代観である。そんな年代観を抱いているから君らはダメなのである。

これは貴方が他から言われるセリフですね。

594 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 11:06:35.59
>>593
神武東征が、紀元元年だとか四世紀だとか言っている、ここの連中は、みんなキチガイである。
日本人がここまでバカになったかと思うと、情けない。

それもこれもひとえに、明治以後の学者が、記紀は創作だとか、
アマタラスやモモソ姫が卑弥呼だと言い始めたからである。

学界がまず堕落し、劣化し、一般大衆がそれに追随した。
ここの連中も、そこそこの大学を出、それなりの知識もあるのに、投稿の内容は無茶苦茶である。

595 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 11:38:39.63
>>594
あほは、おまえだよ。

596 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 11:41:09.14
邪馬台国の卑弥呼は、モモソ媛命であり、
狗奴国の卑弥弓呼は、武埴安彦命だよ。
そういう風に考えたら、イワレ彦(神武天皇)は、
西暦1世紀中ごろの人物だと思われ。
この近畿王権が誕生したのは、紀元前1世紀から西暦1世紀前半で
出雲を倒して、日本国内を統一したと思われる。

597 :596:2012/02/13(月) 11:43:55.93
近畿王権が出雲国譲りで、日本の大半を統一したのは
おそらく紀元前1世紀から西暦1世紀前半のことで
その時の初代の倭王は、天火明命だな。
この人物には、ニニギ命という弟がおり
彼は兄の命令で九州高千穂に赴任することになる。
このニニギ命こそが、現在の天皇家の先祖であり
ニニギ命の曾孫が、イワレ彦(神武天皇)

598 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 12:51:59.43
書紀の編纂者も、古書に、天皇の年齢が150歳となっているのは、おかしいと思ったはずなのである。
ニニギの降臨が180万年前となっているのも、真偽の判断が付かなかっただろう。

しかし彼らは、余計な原文改定はせずに、そのまま書紀に記載したのである。
原資料を尊重したのである。

書紀の編纂者が編年を造作したという証拠はどこにもない。
明治以後の学者が、そんなことを勝手に想像しているだけである。

599 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 12:56:15.37
書紀の編纂者は唐の占領軍のご機嫌とるのにたいへんだったらしいってぢっちゃんがいっていたよ

600 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 13:00:44.88
紀のは
ちゅうこくのひとが一緒に混ざりこんで
でっちあげたっていってるひととかもいたりするんだがね

601 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 13:03:24.38
>>537
太国さんが「二中歴」の九州年号というのを上げている。
九州王朝があったと言いたいのだろう。

しかし私が思うに、それは朝鮮の倭国で使用された年号ではあるまいか。
それが九州にも伝わっていた、というだけの話で。

とにかく私は、古田は一貫して朝鮮の倭と九州の倭を混同しているように思えるのである。
古田が九州王朝と言っているのは朝鮮の倭である。

602 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 14:11:15.64
要は日本の倭人が朝鮮を支配していたということね

603 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 14:20:56.66
>邪馬台国の卑弥呼は、モモソ媛命であり、
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>そういう風に考えたら、イワレ彦(神武天皇)は、
>西暦1世紀中ごろの人物だと思われ。
>この近畿王権が誕生したのは、紀元前1世紀から西暦1世紀前半で
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最上段は間違い。他は正解。

604 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 14:23:05.10
>神武東征が、紀元元年だとか・・・

それがしはそうは言ってません。
東征は紀元元年より少し前です。

605 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 14:28:43.01
>>601
大陸は魏呉蜀に当時分裂しており半島だって数国存在してたでしょうがね。

日本も例外ではなかったんですよ。

日本は二本であって、畿内と九州のほぼ二本立て天下だったということが
真です。畿内一国だけの天下ではないですね。
江戸時代、徳川幕府と朝廷との二本立ての2極であったわけで、古代当時も
やり方は異なるも二本立てですよ。

606 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 15:14:47.00
>日本は二本であって

失笑ww 太国どんもそういうことを言うようになったらお終いだなw

学者もたまには良いことを言うのであって、古代の王は、武力ではなく、霊力によって治めていた、というのは真実なのである。
のちに武力によって治めるようになった。日本でいえば武士政権の誕生である。

だから幕府と朝廷との二極構造を、古代に持ち込むのは的外れ。

607 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 15:21:14.52
徳川家康の時代にほんの数年間で実質的な都が近畿から関東に変わったり
明治時代にも九州の勢力によって関東支配をされたことを考えると
九州の邪馬台国が近畿にあった勢力に取って代わったというのは十分ありえる気がする。

608 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 15:58:55.89
>だから幕府と朝廷との二極構造を、古代に持ち込むのは的外れ。

この根拠を書かねば何もなりませんぜ。

日本だけ一国だったとはなりませんよ。

609 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 16:56:23.94
太国どんには

大国主のお名前自体が汚染されちゃってる

とゆう筋の発想とかはむりだろな

看板の差し替え疑惑に関しては

国とかが一番あやしいとかは理解とかできます?

610 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 18:37:05.77
?????

611 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 18:44:44.86
>>543 さらにヨコですが
> 円筒埴輪は、吉備北部発祥で東瀬戸内をゆるやかに東遷。

北部というのはどの遺跡のことですか? 特殊器台の使用は楯築が最初だと聞いているが。
また、東瀬戸内に特殊器台を使用した遺跡があるとは聞いたことがないが。

612 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 18:55:37.30
>>562
> 強いて言えば「特定家族墓」、ここの甕棺の副葬品レベルであれば、出雲や四隅や畿内の方形周溝墓の一部に認められます。
> 墳墓としての性格は、吉野ヶ里も出雲も畿内もほぼ同じで、盾築に始まる吉備の墳丘型首長墓とは系統を異にしますね。

吉野ヶ里の北墳丘墓は「特定家族墓」ではないらしい。被葬者は吉野ヶ里集落およびその分村のリーダー達だろうという。
四隅は首長墓でいいだろう。「畿内の方形周溝募」とは加美Y1号のことなら特定家族墓でいいのかな。
したがって、「墳墓としての性格」は三者とも異なると思われる。

613 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 18:57:34.18
>>568
> 古墳の原型は盾築、そして盾築の原型が北部九州の王墓(特定個人墓)。
> 特定個人墓と言う祭祀形態は、行き成り九州から来たわけではなく、数百年の時を隔てて序々に伝播してきたのですね。

「北部九州の王墓」が三雲南小路・須玖岡本のことなら、段階的には同程度といえるが、
北部九州においても後期前半までの、吉備においても中期末までの社会構造はいったん断絶し、その後再編成されたと考えられる。

したがって、中期後半の北部九州の社会の有り様が後期後半の吉備に伝わったとは考えにくい。
吉備における首長制社会の成立は後期からの独自の発展によるものだと思うが。

614 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:09:05.69
前方後方墳の祖型、尾張平野沿岸部廻間SZ01墳丘墓、
前方後方墳の初型、尾張平野、尾張川(現・木曽川)沿いの西上免古墳。
狗奴国一宮、萩原遺跡群は同地域。

615 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/13(月) 20:36:27.48
西上免古墳は、廻間様式(廻間I式4段階)の中で前方後方墳の造営が開始されたと推測する。

纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散

東海と纒向の蜜月時代の始まり。


616 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:18:41.19
唐松山は、邪馬台国九州説なのか、畿内説なのか、はっきりしろ!

617 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/13(月) 22:23:11.17
>>616
奴はトゥー・フェイスです。

それにスリー・フェイス(+畿内兼九州説)でもあるます。

618 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 22:29:28.38
>592の朝鮮の記事をいじるがw>>592

>古事記最古の写本では、天沼矛は天沼弟、八千矛神は八千弟神となっているのです。
>本居宣長が勝手に弟を矛に改竄したのです。気を付けましょう。

これは、オオオッ て感じなんですが、

>漢書地理志に百余国とある倭は、渤海周辺か韓半島の倭です。

だとか、

>鏡、剣、勾玉。すべて神代から神話に登場する物であって、九州の文化ではない。

とかは笑うしかないよねw
あと年代論に関しては、唐サンとか太国のおっさんに任せるw

619 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 22:33:12.12
>>552のsss氏の投稿

>銅矛の場合も、記紀のしょっ鼻に天沼矛などが登場してきて、矛が大和朝廷に
>とって重要な役割を果たしていたのがわかる。逆に銅鐸は記紀に全く登場
>しない。大和朝廷とは異質な文化だったことがわかる。

なんか、良いネタですよね。
う〜ん、これについては少し調べてみないとなんともいえないよね・・・。
他の畿内説の、ローガンさんやジョーカー氏の意見も聞いてみたいですよね。
私も畿内説をとってるんですが、他の畿内説さん〜これについどう思います?

620 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 22:49:06.83
>>523 朝鮮
>いや、全然指してないぞ。どこにそんなことが書いてある? このバカタレが!

ここの那珂通世の欄でもよんで勉強しとけw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E9%85%89

>正直言うと、私は古代史本は一冊も持っていないw 倭人伝の文庫本すら持っていないw
>記紀さえ、実はまともに読んだことはない。そろそろじっくり読む必要があるかな、と思っているところだww

やっぱりな・・・本ぐらい購入しろよ〜ww

621 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:57:04.19
>>619
銅鐸だと天浮橋からかき混ぜにくいと思います。

622 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:23:52.11
>>555 sss
>東遷の根拠にはいろいろあるが、例えば古事記の記述がある。
>神武天皇に随行してきた大久米命は顔に刺青をしていた。
>それを見て、三輪山の付近に住んでいた五十鈴姫は奇妙に思う。
>つまり、東征してきた人々は刺青をしており、大和周辺ではその習慣は
>なかったとこになる。

全国的に見つかる縄文時代の土偶には顔や体に刺青をしたような模様がみられ
この土偶の普及をみると、三輪山の付近の人々が知らなかったとは考えられない。
畿内説を否定したいのだろうが、少し無理があると思う。

623 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:26:22.97
ちなみに土偶てこういうのね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Figurine_Dogu_Jomon_Mus%C3%A9e_Guimet_70608_3.jpg

624 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:26:36.33
>>619
濊伝に「矛は長さ三丈に作り、あるいは数人でこれを共同で持ち、歩兵戦で巧みに使う。」とあります
百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていたからではないでしょうか

625 :縄嘉ー:2012/02/13(月) 23:32:25.04
>>619 :メ(スポーツスポーツ)

倭人伝に書かれている邪馬台(壹)国が畿内では有り得ないことは全ての人(一部の・・は除く)が認めるところである。
倭人伝の記述に間違いがあるとしなければ畿内説は成立しない。このことを先ず言っておく。

記紀の記事について言えば、貴殿が引用したsss氏の文のとおり、大和朝廷の祖は銅鐸文化圏であった近畿で育ったものではない。
つまり、大和朝廷の祖は外部から畿内に入って来た者である。
記紀に銅鐸が登場しないということは、大和朝廷が初代天皇とする神武天皇の時代が銅鐸が姿を消す時期あるいはその後であると
いうことであろう。つまり、神武天皇の時代は3世紀であろう。
記紀によれば神武天皇は橿原に都を構えたがまだ奈良盆地の一豪族にすぎない。
一方、倭人伝によれば2世紀末には卑弥呼は倭国の王に共立されている。30国ほどを束ねる身である。
このように卑弥呼の邪馬台国が畿内になかったことは記紀からも言えるのである。


626 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:32:47.99
>>621>>624
>逆に銅鐸は記紀に全く登場しない。大和朝廷とは異質な文化

についてどう思うのか?が聞きたいんですが

627 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:46:03.05
>>625
あんた、私にレスしてくるなんて珍しいねw

>倭人伝に書かれている邪馬台(壹)国が畿内では有り得ないことは全ての人(一部の・・は除く)が認めるところである。
>倭人伝の記述に間違いがあるとしなければ畿内説は成立しない。このことを先ず言っておく。

<倭人伝>
計其道里當在会稽東冶之東

その道里を計るに、会稽、東冶の東にあり。

を良くよみなされ。

>記紀の記事について言えば、貴殿が引用したsss氏の文のとおり、
>大和朝廷の祖は銅鐸文化圏であった近畿で育ったものではない。

天皇家の祖は西の方からやってきた(神武東征)。
九州では、銅矛、銅剣の文化圏、近畿では銅鐸の文化圏とに分かれてるが
ともに。弥生中期おわり〜後期の初めにかけて「巨大化」する。
所詮、青銅器を使って祭祀したんであって「モノ」が違うだけにすぎない。

628 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:57:08.04
>>625
>記紀に銅鐸が登場しないということは、大和朝廷が初代天皇とする
>神武天皇の時代が銅鐸が姿を消す時期あるいはその後であるということであろう。
>つまり、神武天皇の時代は3世紀であろう。
>記紀によれば神武天皇は橿原に都を構えたがまだ奈良盆地の一豪族にすぎない。
>一方、倭人伝によれば2世紀末には卑弥呼は倭国の王に共立されている。30国ほどを束ねる身である。
>このように卑弥呼の邪馬台国が畿内になかったことは記紀からも言えるのである。

<隋書 倭國伝>

邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。

とあるとおり、邪靡堆というのは、大和朝廷の前身であるヤマトを指してのことである。
すなわち、このヤマトは、魏志のいう邪馬臺國と明記されている。
記紀の話に銅鐸が出てこないのはジョーカーさんにでも聞いてくれw。

629 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:57:11.46
>その道里を計るに、会稽、東冶の東にあり。を良くよみなされ。
良く読んだら何だっていうんだろう。倭国が九州だということは明らかだと
思うが。

630 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:57:52.93
メ って東遷説だったの?

631 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:57:58.19
メ は会社で義理チョコ3個だけ

632 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:08:02.55
>>628
>邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
>とあるとおり、邪靡堆というのは、大和朝廷の前身であるヤマトを指してのことである。
まったく筋の通らない主張だな。
隋書が書いているのは、「都の邪靡堆は、魏志にいう邪馬台と同じだ」というだけのことだ。
邪靡堆が大和であるとは一言も言っていない。
隋書の記事は、隋使の報告書を基にしたものであろうが、隋使はどうして「魏志にいう邪馬台
と同じだ」と判断したのであろうか? それは、当然、魏志が伝える邪馬台国の方角、距離と
自分が訪ねた邪靡堆の方角、距離が同じだと思えたからだ。つまり、使者は、北九州から南へ
しばらく行って邪靡堆に到達したんだね。だから、隋書は北九州からの行程をあまり詳しくは
書かなかったんだ。魏志と同じだから簡略に示しただけということさ。


633 :縄嘉ー:2012/02/14(火) 00:12:14.46
>>627 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/13(月) 23:46:03.05
>計其道里當在会稽東冶之東
>その道里を計るに、会稽、東冶の東にあり。
>を良くよみなされ。

君は下記を読むがよい。
夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東
文章を途中で切ってそこだけ取り出しても意味はなかろう。(何のことだか分からんかも知れんが)

>所詮、青銅器を使って祭祀したんであって「モノ」が違うだけにすぎない。
埋納のされ方が違うだろ。九州の銅矛、銅剣は首長墓に副葬されているが、近畿の銅鐸は副葬ではなく隠すように埋めてある。

今日はこれまで。お休み。

634 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 00:17:57.74
縄原人さんが

>卑弥呼の邪馬台国が畿内になかったことは記紀からも言える

とか言ってるが・・・神武天皇が即位したのは紀元前後だろうね。
これは天照大神が祭られてる伊勢神宮の神明造は弥生時代の高床式から来てるもので
しかも、ここで御神体とされてる三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)は
内行花紋鏡が考えられるので、この鏡と言えば楽浪郡が紀元前108年に設けられて、海を渡って
日本列島に来たんであって、天照大神の時代は、大体この頃だろうことが想像できる。
そこから5世代後となれば紀元一世紀らへんだろうか・・・神武天皇即位は紀元前後あたりだろうね。

魏の時代に活躍した「日巫女」がどの天皇の時代に該当するかは、神武天皇から何代か後の時代。
そうですね、約200年の間があるので、7世代あとぐらいの天皇になるのでしょうかねえ。

635 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 00:23:30.22
>>632
アホ
隋書の「邪靡堆」は天皇家を中心とする奈良のヤマトだよ。

>>633
>文章を途中で切ってそこだけ取り出しても意味はなかろう。(何のことだか分からんかも知れんが)

おぬしアホだな・・・・w
全体をとおしても、「その道里を計るに、会稽、東冶の東にあり。 」とあるとおり、
邪馬台国は、会稽、東冶の東に位置する とさいか読めんよwww

636 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 00:27:13.86
>>633
>埋納のされ方が違うだろ。
>九州の銅矛、銅剣は首長墓に副葬されているが、近畿の銅鐸は副葬ではなく隠すように埋めてある。

おまえさんと話してると小学生と話してるようで笑えてくるw
埋納のされ方の違いについては、九州内においても各地域によって
多少の違いがある。地域差はどこだってあるんだよ。

637 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:30:26.89
銅鐸埋納を銅鐸祭祀を否定する集団による征服と考えるならば、かつて銅鐸を製作していた北部九州を征服した後
東進した半島勢力による日本征服説になる 九州勢力による征服であればあわてて隠す必要はない

638 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 00:34:15.43
たぶん、縄原人さんの頭の中では、
九州での埋葬方法はコレ!近畿での埋葬方法はコレ!て感じなんだろうね アハハw
単純な人は、脳内お花畑が咲いてるようで、気が楽ていうか羨ましいうな〜(笑)

639 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 00:39:49.53
>邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。

ヤマタイ国はヤマト、そう判断せざるを得ないよな。
で、記紀に書かれた人物で、一番近いのがモモソ媛。
ま、一番浪漫の欠片もない説だが現実はそんなもんだよw


640 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 00:43:09.17
明治以前の応神天皇は第十六代天皇だったんですけど、
天つ神から数えると、それ以上の第○○代天つ神だったりして、
いまでいうと現在の天皇は125代目ですが、古代の応神天皇の頃にも
それぐらいの○○代目前の祖先なんかいたのであろうという感じで考えています。


641 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 01:04:08.50
sss氏と縄原人さんは九州東遷説らしいですが、
わたしはあいにく畿内説なんですよ。
ここの板の連中は「畿内説」と聞けば、「畿内自生説だろ?」ていう
感じに思ってる人が多いように感じる。
昔から言ってる通り、わたしは、畿内説でも「邪馬臺」とはヤマトと読み、
神武東遷説ともいえる立場をとってるので、畿内説が全て同じとは思わないほうがいいと思う。
それと、ホツマのほうに「うつぼ」だったか?の話がある通り滋賀県の琵琶湖周辺で国を治めたような話があると思うんだが
九州に限らず、神社の遷宮が示すように、各地でそういうマツリ事をおこなってたのではなかろうか。
さて、もう遅い時間なので寝ましょうかね・・・・・zzzz

642 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:09:33.53
>>637
吉野ケ里からも出ているが、九州の銅鐸は鳴らすもの。あるいはそれに近いもの。
近畿地方などで大型化した銅鐸は音を出すものではない。
性格が異なっていて、祭祀用具として宗教性を帯びていたと考えられている。

異なる宗教を信仰していると、支配者の目は厳しくなる。
自分たちにとって都合が悪いとなれば徹底的に排除することになる。

大型化した銅鐸がどのような意味を持っていたのかは記紀に登場せず、また
その痕跡も残っていないので窺い知ることは出来ないわけだが…。

643 :メ(スポーツスポーツ):2012/02/14(火) 01:10:18.65
>>629
○〜○までというような、「距離」の事を言ってるんですよ。

>>630
「邪馬臺」はヤマトと読み、神武東遷説です。
魏の時代の日神(一時的な巫女王)は、神武天皇から数えて7〜9世代後のヤマトを代表する巫女でしょうね。

644 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:41:24.36
「阿蘇山あり」という国のどこが畿内なの?

645 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:47:59.29

知識が乏しすぎるのか、情報に目を覆っているのか

銅鐸・武器形青銅器の埋納状態
http://www.shd.chiba-u.ac.jp/~ghss/activity2/vol/kiyou/kiyou1103_06.pdf

銅鐸に伴う「舌」
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo03/0306hatori.pdf

646 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:04:39.73
>>644
逆に言うと倭人伝の記述に阿蘇山が無いというのは、
あの辺りに邪馬台国が無いという証明だよ。
つまり後世の倭国伝の時代には、阿蘇山辺りも
大和朝廷が土蜘蛛退治の結果、支配下にあったからだね。

647 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:08:17.53
>>646
馬鹿は死ななきゃ直らない

648 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:19:26.59
>>645
畿内説の考古学が我田引水というのはみんなが知っているからなあ。

649 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:19:54.13
>>646

それは、「畿内邪馬台国が阿蘇山に遷都した」って意味しちゃうけど、それでいいわけね?

650 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:32:49.28
>>649
頭だいじょぶ?w

651 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:34:35.53
>>648
読んでないなw

652 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:35:21.38
卑弥呼の墓碑銘とか邪馬台国跡の看板とかが出てこない限り
畿内説の考古学なんてありえない。

653 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:38:41.26
>>649
そんな記述は中国にも日本の文献記録にも無いよw

654 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:39:44.35
>>650

頭が大丈夫じゃないのは645。
倭奴国の後継が邪馬台国で、邪馬台国の後継がイ妥国で、
イ妥国に阿蘇山があるのに、邪馬台国が畿内の国なら、
畿内から阿蘇山へと国が引っ越したことになるなw

655 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:40:04.96
畿内には邪馬台国を指し示すものは皆無だから
「邪馬台国畿内説」という言い回し自体が成り立たない。詐欺か精神病。

656 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:40:22.26
>>653

隋書イ妥国伝を百回嫁。

657 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:45:01.20
夜中にファビョるなよw
九州には間違いっても邪馬台国は無い。
所詮討たれる「夷」よ、その結果阿蘇山の辺りも倭国の範囲になっただけ。
記紀の記録ではそうなる。

658 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:47:07.12
キチガイは夜中もキチガイ。朝になってもキチガイ。

659 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:55:09.99
邪馬台国九州説はカルト。


660 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:58:07.50
お前は精薄。

661 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 04:19:40.55
まああれだわ

近畿地方の朝廷のも

女酋長が出てくるあたりまでは

相続システムとかはまだ熊襲臭とか抜け切らないわけでさ

ちゃんと落ち着くのが桓武嵯峨以降のだとゆのは

ある種共通認識

662 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 07:22:53.01
>○〜○までというような、「距離」の事を言ってるんですよ。
距離がどうだというのかな? 万二千里が会稽あたりというのは、その北千五百里
すなわち上海あたりが末盧国だろうとなる。
「会稽東冶の東」と書いた人は、九州が全体的に南にあると思っていた、それだけ
のことだ。



663 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 09:55:11.74
君らの投稿を読んでいて気になること。それは、

鏡、剣、勾玉を九州の文化と解しているらしいこと。

これには正直、驚く。そのような共通理解が君らにあるのか?
何か根拠でもあるのだろうか。
それともそれが現代の学界の定説なのか。

こんなのはてっきり天皇家というか日本民族の文化だと私は思っていたのだが。
(ただし鏡信仰が日本だけの文化ではなく、朝鮮などにも共通のものであることが契丹古伝を読んで分かった。)

664 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 10:00:51.98
もうひとつ気になることは君らの年代観の無茶苦茶さ。
君らが記紀を、特にその編年を、信じていないことがよーく分かった。

前からそれは分かっていたが、名無しさんも名前を入れている人も、
まったく同じようなことを書いているので、改めて痛感した。

665 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 10:21:41.30
毎日毎日気違いじみた妄想ばかりで気持ち悪いw


666 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/14(火) 10:51:52.39
>もうひとつ気になることは君らの年代観の無茶苦茶さ。

他人のことは言えないでしょう?w

あなたのこそメチャクチャだと思いますがね。

667 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 11:22:44.28
魏の劉徽の「海島算経」に「里法 三百歩」とあるそうだ。一里=三百歩の意。で、

http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/list/size.html

によると魏晋代の一歩は120.5cmだから、一里は361.5mになる。

ただし上のサイトは一歩=五尺としている。仮に一歩=六尺とすると、
一歩=144.6cmとなり、一里=433.8mとなる。

ちなみに一歩=120.5cmとすると百歩は120m、
一歩=144.6cmとすると百歩は145mとなる。
卑弥呼の墓は径120m〜145mとなる。

668 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 12:11:58.92
その書き込みで朝鮮が誰だかバレバレだなw

669 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 17:36:41.38
今、古田の「ここに古代王朝ありき」を読んでいるのだが、意外なことが書かれていた。

九州の古墳から出る前漢式鏡、後漢式鏡のことだが、それは前漢、後漢の鏡ということではなく、
鏡の銘文の書体が前漢、後漢の様式だと思われるということらしい。
しかも様式がその時代のものだというのは、あくまで学者の推定にすぎないのである。

な〜んだ、という感じである。私はこれまでてっきり前漢、後漢時代の鏡だと思っていた。
鏡の銘文に前漢、後漢の年号が刻まれているのだと思っていたのである。

これだから、本に書いてあることをそのまま信用してしまうのは危険である。
改めてそう思った。

670 :志紀:2012/02/14(火) 17:56:50.73
>>669
読書感想文をいちいち書くな

671 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:02:42.91
知的障害かよこいつは

672 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:18:55.29
>>669 は、ハナタレニートナゴヤという無職のガキだからしかたがない。
無視するに限る。

673 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:22:05.88
後漢なら後漢とはっきりしている遺跡から出る鏡と様式が一致していれば
基本後漢鏡でおKだろ
鏡にはすべて年号があるとか思ってんのかこいつは

674 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 18:28:21.63
一体どこをどう読めば私が名古屋君だという結論になるのだろう。
主張している説も、文体も、名古屋君とはまったく異なるではないか。

私が名古屋君ではないことは名古屋君が知っているよ。

675 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 18:36:02.26
>>673
>後漢なら後漢とはっきりしている遺跡

だからその後漢であるという年代決定の決め手になっているのが鏡なのだよ。
鏡で古墳の年代を決めているのだ。

ところがその鏡の年代が、実ははっきりしない、という話なのだ。

676 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:37:59.39
名古屋君のが育った

677 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:39:05.28
>>675
わけわからん 中国の話をしてるんだが

678 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:39:11.17
おつまみ

●哆唎思北孤
●多利思北孤

679 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 18:42:07.57
>>678
三塁打級のヒット!

680 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:46:09.85
おつまみのおかわり

任 那 國
彌馬那國 上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。

●哆唎國守
●穂積臣押山 ←(いしやま)(意斯邪馬) ←(いしやま)
●委意斯移麻岐彌(いいしいまきみ)

 筑紫国造磐井(いしい)

新羅改遣 其上臣
●伊叱夫禮智 干岐(いしちふ)(韓岐)
●伊叱夫禮智 奈末
●異斯夫

681 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 19:26:35.28
>私が名古屋君ではないことは名古屋君が知っているよ。

「朝鮮」と「名古屋君」と「無限如」の三者は同カクというかw
似たような感じなので間違われたりするんですよw

682 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 19:28:20.01
if 筑紫国造磐井(いわい)

「磐」が割れると「石」になったりする

ちなみに

●磐(いわ)余彦之酋長

「余彦」だと「磐」からはかなり遠い縁戚関係

683 :俾彌孤:2012/02/14(火) 19:51:15.72
「海隅出日 罔不率俾」

素直に「日彌孤」で良いかともおもふが 「俾彌孤」のほおが知的にみえる。

「甕棺」とゆうのは「壷棺」なのかもしれんし しゃれて「壹棺」って書いたらエロ知的にみえる。

「甕棺」とゆうのはたぶん蛹か卵殻のまねっこじゃろ

死後に蘇生してからに ぴかぴかの鳥さんとか ごっつい蛾になるんじゃろさ 蘇蛾 蘇蛾

684 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:05:41.85
>卵殻

なるほど

685 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:22:23.29
辰韓在馬韓之東
             (中略)
始有六國 稍分爲十二國
弁辰 亦十二國
             (中略 25國を記載)
●弁辰 合二十四國


辰韓12ヶ國( 4 + 8 )(所属不記載分+楽浪郡支配下に編入分) ← 其十二國屬辰王

●弁辰 亦十二國    ← 其?廬國與倭接界 十二國亦有王


其?廬國與倭接界 十二國亦有王


ここのは要に「弁辰」のラベルののなかみはダブルスタンダードなのね

司馬氏リモコンで郡直轄化が出来た後には ●弁辰 合二十四國

司馬氏リモコンで郡直轄化が出来る前には ●弁辰 亦十二國のなかみが「弁辰」なのね

686 :すまんかったわ:2012/02/14(火) 21:24:51.75
× 其?廬國
○ 其瀆廬國

687 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:41:39.80
ああべつにぴかぴかの鳥さんとかだけでなくても良いよな

亀さんだとか、匍匐委蛇する和邇さんだとか、蛇さんそのものだとかでも良いしね

てか 胎生の和邇さんだとかは駄目だな まむしとかも駄目だろ

688 :志紀:2012/02/14(火) 21:54:43.13
あんた意味わかんねえよ

689 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:59:18.50
オマエも似たようなものwww

690 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:00:27.78
妄想できないやつはクズだろ

691 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:07:04.33
老眼:畿内力A 知識力A 粘着力C 凶器力B 妄想力C
伊作:九州力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C
縄文:九州力C 知識力B 粘着力B 凶器力C 妄想力C
唐松:畿内力C 知識力B 粘着力A 凶器力A 妄想力A
太国:九州力C 知識力× 粘着力A 凶器力A 妄想力B
夢幻:東北力C 知識力C 粘着力A 凶器力B 妄想力B
奴壺:畿内力C 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力C
婆札:畿内力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C
恨節:九州力A 知識力A 粘着力B 凶器力C 妄想力C
朝鮮:朝鮮力B 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力B
王朝:古田力B 知識力B 年功力A 凶器力C 妄想力A
志紀:九州力C 知識力C 粘着力B 凶器力C 妄想力C

692 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:35:51.05
つくのひのくに出身で日の昇る方角へ戦いを仕掛けた一族が建日向
たけひむか、とよのくにの連合が日豊久士

693 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:36:47.73
A・・・3点  B・・・2点  C・・・1点 として採点集計するとさ

@ 唐松:畿内力C 知識力B 粘着力A 凶器力A 妄想力A 総合12ポイント
A 王朝:古田力B 知識力B 年功力A 凶器力C 妄想力A 総合11ポイント
B 老眼:畿内力A 知識力A 粘着力C 凶器力B 妄想力C 総合10ポイント
B 伊作:九州力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C 総合10ポイント
B 婆札:畿内力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C 総合10ポイント
B 恨節:九州力A 知識力A 粘着力B 凶器力C 妄想力C 総合10ポイント
F 太国:九州力C 知識力× 粘着力A 凶器力A 妄想力B 総合9ポイント
F 夢幻:東北力C 知識力C 粘着力A 凶器力B 妄想力B 総合9ポイント
H 縄文:九州力C 知識力B 粘着力B 凶器力C 妄想力C 総合7ポイント
H 朝鮮:朝鮮力B 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力B 総合7ポイント
J 志紀:九州力C 知識力C 粘着力B 凶器力C 妄想力C 総合6ポイント
K 奴壺:畿内力C 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力C 総合5ポイント

やっぱ、唐松さん、久留米さんのインパクトと言うか、妄想力は素晴らしいんだと思うw

694 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:51:25.16
こういうのを見ると、計算力と言うか数学力も入れたほうが良いと思う。

695 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:40:59.59
「数値の高いほど客観的にダメ」という評価基準ばかりなのは、なぜなんだ?

696 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:46:38.90
おつまみ

●高良玉垂
●狗羅玉哆唎

●伽耶王哆唎 ♀
   大垂姫 帰還 善記元年(522)

弁辰の女酋長のの子孫のが帰還かも

熊襲の女酋長の卑弥呼のときに弁辰にいた王様も卑弥呼ってお名前だってべつにかまわんけどさ

陳壽さんはふれていないけどこっちの卑弥呼だと身長とか高かったかもな

697 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:00:10.08
なんか倭人の王家のは連綿と女系で続くのみたいのだから

他所から客人とか来ると居付いちゃってからに

看板が例えば「秦國」にすりかわちゃたとしても

王家のなかみはのは連綿と女系で続くみたいなもんかな?

そしたら王家だけみればアマゾネスみたいなもんじゃね

698 :じゃ、改定版:2012/02/15(水) 00:07:57.46
>>694

>こういうのを見ると、計算力と言うか数学力も入れたほうが良いと思う。

A・・・3点  B・・・2点  C・・・1点 として採点集計
@ 唐松:畿内力C 知識力B 粘着力A 凶器力A 妄想力A 数学力B 総合14ポイント
A 婆札:畿内力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C 数学力A 総合13ポイント
B 王朝:古田力B 知識力B 年功力A 凶器力C 妄想力A 数学力C 総合12ポイント
B 老眼:畿内力A 知識力A 粘着力C 凶器力B 妄想力C 数学力B 総合12ポイント
B 恨節:九州力A 知識力A 粘着力B 凶器力C 妄想力C 数学力B 総合12ポイント
E 伊作:九州力B 知識力B 粘着力A 凶器力B 妄想力C 数学力C 総合11ポイント
E 夢幻:東北力C 知識力C 粘着力A 凶器力B 妄想力B 数学力B 総合11ポイント 
G 太国:九州力C 知識力× 粘着力A 凶器力A 妄想力B 数学力C 総合10ポイント
G 縄文:九州力C 知識力B 粘着力B 凶器力C 妄想力C 数学力A 総合10ポイント
I 朝鮮:朝鮮力B 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力B 数学力C 総合8ポイント
J 志紀:九州力C 知識力C 粘着力B 凶器力C 妄想力C 数学力C 総合7ポイント
K 奴壺:畿内力C 知識力C 粘着力C 凶器力C 妄想力C 数学力C 総合6ポイント

699 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 01:08:44.70
太国氏は数学には強いだろう。
元の式が何から来てるのかは、俺にはわからないが。

700 :なんだこりゃ:2012/02/15(水) 01:16:33.24
なんだその、知識力Aだとかw 総合ポイントだとかwww
俺たちは、ドラゴンクエストのキャラじゃないよwwwwwww
恥ずかしいからやめろってw

701 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 07:41:26.68
『少年漫画』
遊戯王デュエルモンスターズカードの強さを思い出すwww
唐松カード、総合ポイント4(強さ)だとか、
恥ずかチィ からやめろってw (‖0‖) くそがきw


702 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 08:40:26.68
妄想ばっかだしここにいるのはほとんど文系だろうに。
理系ならもう少し分析力あるし。

703 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 11:16:20.32
>>690
なに発狂してんだお前。


704 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 14:46:11.24
女王国は但馬 丹後から奈良へと東西と言いますか、南北と言いますか、
細長い国だったのではないでしょうか。
 そして女王のお墓が生野にあるようです。 
魏志倭人伝による唯一の情報から女王国も矛盾なくその説明がつきそうです。
そして、壮大なスケールで地上絵を造ってあることもそれを証明しているようです。
http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2012/02/post_7ad8.html


705 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/15(水) 17:34:03.36
私はかねがね、なぜ君らが神武東征を二世紀頃と考えているのか分らなかったのだが、
古田の「ここに古代王朝ありき」を読んでいて、はは〜んと思った。

古田は銅鐸の分布図を見て、弥生後期に大和から銅鐸が消えていることに着目し、
それは大和に外部勢力が侵入したからだと考え、その外部勢力侵入を神武東征と考えたようである。

なるほど、と言いたいが、そんなのはあくまで古田の想像である。
信じたい人は信じればよいが、そんなのは空想だと言っておく。

706 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 17:44:55.02
古田説では、神武東征は紀元0年のころのはずだが。
それに、「南方の論証」(『盗まれた神話』)というのがあって、
これを崩すのは難しいぞ。

古田の記紀研究は端倪すべきものがあるぞ

707 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 17:46:11.42
まあそこの筋のは結果中身すげかえられちゃう血統のだからして興味とかわかないけどな

708 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 17:49:20.17
>>706
端倪すべからざるものがある、だったかな

709 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 18:35:32.88
神武天皇即位は西暦元年(辛酉)ですよ。

これは綿密な倍暦逆算で分かります。

710 :縄嘉ー:2012/02/15(水) 18:36:25.52
>>705, >>706
儂は神武東征は倭人伝にある倭国乱の頃に始まったと推定している。
記紀には鉾や剣は出て来るが、銅鐸のことが出て来ない(重要な祭祀具としての記述がない)から大和朝廷の
祖は外部から畿内に入って来た者である。初代天皇とする神武は九州の日向から来たことになっているので、
九州から入って来たのである。それが銅鐸が姿を消す(埋められる)時期で倭国乱のころである。

711 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 18:43:14.00
倭国乱とかってむだに男王たてたりするから世間が許容しなくって起こっただけだろ

さらに 「住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」 これも半分なんでしょ

712 :縄嘉ー:2012/02/15(水) 18:45:39.07
>>709 :太国 ◆yVAs7uaYlY
日本書紀の辛酉などの記述を信用してはいかんよ。暦が日本に入って来るのはずっと後のことだ。

713 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 18:50:07.80
>>712
神武のころ、すでに暦はありましたよ。これは日本書紀ではないです。
  ↓
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年

 太陰暦を【太陽暦】に改め、

 30日を一月とし、十月を1年と定め給う。



714 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/15(水) 19:03:54.76
>>706
「南方の論証」には賛同する。
しかしそれと神武東征の年代は別問題。

715 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 19:15:21.10
>>714
南方(みなみかた)という地名は、
神武東征の説話の中に出てくるんだが

716 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/15(水) 19:19:50.12
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差
(たが)ひ、正月を反て二月と為す。
「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国で
は、儀 鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱却した破章法による暦法であって、「古記」が示すよう
な固定的な閏月の型を示さず、閏月は次第に進行する性質を 持っている。「古記」が解説する暦法は、儀鳳
暦ではない。


717 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 19:41:56.33
>>710
銅鐸は九州でも作ってますが。

718 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:43:42.67
オモチャだろう。

719 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:48:13.62
大型の銅鐸や大型の銅鏡つくる方が祭祀用の銅剣、銅矛作るより金属加工技術的には高度だろうな

720 :sss:2012/02/15(水) 21:31:14.96
吉野ヶ里遺跡でも銅鐸は出ている。これは福田型銅鐸といって福岡県や
佐賀県で鋳型が出ている。福田型銅鐸は出雲でも出ている。
つまり、九州産の銅鐸が出雲から出ているわけである。

福田型銅鐸は、いわゆる菱環鈕式銅鐸に先行するものという説もあって、
そうならば、銅鐸の発祥は九州ということになる。

出雲の荒神谷遺跡では、銅剣が358本、銅鐸が6個、銅矛が16本出ている。
銅矛は、矛ということや独特の綾杉文から九州製は間違いないとされる。
銅鐸も九州の可能性があるとなれば、銅剣もその可能性は高くなる。
そもそも銅剣は九州のものと見られる傾向があるからである。

そうなると、なぜ、九州の青銅器が大量に出雲にあるのか、九州から
持ち込まれたとすれば反対給付は何だったのか。いろいろと興味は尽きない。

721 :志紀:2012/02/15(水) 21:39:36.54
>>706
俺はイワレヒコ侵入は1〜2世紀だと思うが、南方の証明は凄かったよな。
実は俺の大学時代の友人が南方に住んでて、「どういう意味だよ」って聞いたら
「新幹線の駅のなんぽう」って答えやがったw
でも、なんのナンポウかは確かに不思議だったな。

>>710
筑紫のひむかのたかまがはら=筑紫だ。のりとにもそう書かれてある。
これも古田の「神武の行程」論証で、確度は高い。

722 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/15(水) 21:44:09.39
>>715
だから「南方の論証」には賛同すると言っているのですよ。
しかしそれと神武東征の時期の問題は別問題です。

723 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:44:28.04
>>721
しまいののところはのおないほせいしてあげよお

724 :sss:2012/02/15(水) 21:47:04.45
>>721
東遷説的には、天照大神=卑弥呼+台与となる。
記紀から考えて、神武東征は天照大神の後になるので、最大限早くても
3世紀の終わり頃になる。

725 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:47:08.46
けふの朝鮮くんはげんきなさげですねえ

726 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/15(水) 22:06:42.35
>>725
なにしろ、

読書感想文をいちいち書くな

と言われたからな。そんなことを言われたら何も書けないw

727 :志紀:2012/02/15(水) 22:13:49.69
>>720
荒神谷は、文字通り埋納ではないかという説もありますね。人気がなくて売れずに余ったから、しょうがなしに倉庫に
そのまま埋まっちゃったとw

石野博信のようなタチの悪い狂信者が、全国新聞で加茂岩倉の銅鐸の成分分析から唐子鍵と共通っぽいこと言って
るが、成分をどう読めば似ているのか理解に苦しむ。
貴方の言うように、むしろ銅鐸も九州発で、そこから弥生文化の東への伝播と共に巨大化していったんじゃないかな。
荒神谷の銅鐸は、最初期の形でかつ北九州産の銅矛(銅剣)と一緒に埋納してあったから、余計にその思いを強くしま
す。銅鐸の生産体系自体まだよくわかってないので、絶対に銅鐸文化=畿内の専売特許と確定しているとはまだまだ
言えないと思いますね。

728 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/15(水) 22:14:02.39
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜83年? ?
懿徳天皇 84年?〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章 妃は手研耳の落し子の孫。
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1、2年の異常。崇神と同じ暦のため。
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。
唐古・鍵、近江伊勢遺跡などの衰退、変化。7年 大物主の国譲りとタタネコ=庄内式の始まり。
209年 新羅本紀 加羅に援軍、三国遺事。=任那建国。

弥生中期から後期に変わるとき銅鐸も作り変えられる。
弥生後期後半で銅鐸は見捨てられ、古墳祭祀(モモソ姫)に変わる。


729 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 22:19:31.86
妖魔の毒書 秀魔電 に染めた編年はインチキ創作であ〜る。秀魔電は危険な厄物。
<大中臣の下命>
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」 太祝詞事は二十(フト)
祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。 20桁目にかかっての三数は
658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数 の 421 を得る。
(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。(○数字参照)


 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年


の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これが本物だ。
      崇神即位年≠188年 106:太国 ◆

730 :sss:2012/02/15(水) 22:23:11.25
>>727
うん、それと畿内説が触れたくない、というか触れて欲しくないのが
弥生の鉄の問題。この問題では、近畿地方は蚊帳の外に置かれてしまう。
弥生の鉄をタブー視するのも問題をややこしくしているかも。

731 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 22:23:36.89
>>729 訂正
× 崇神即位年≠188年 106:太国 ◆
○ 崇神即位年≠188年



732 :志紀:2012/02/15(水) 22:29:09.37
>>724
古田説では、ニニギの長男の海幸系が九州、山幸の息子がウガヤフキアエズ、でしたっけ。
なんか、神武との分岐が早すぎるように感じるんですがね。まだ北部九州での王権的な存在が良くわからないから
何とも言えませんが、遥か東、僻遠の「葦原中つ国」へと向かう壮挙が必要な背景があったのかな。
まあ道中を見ると、最初から奈良盆地を目指してたかどうかわかりませんが。

733 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/15(水) 22:46:22.70
> 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。

崇神時代は、5,6年の災害(寒暑矢序)
同11年の異俗多帰
及び任那建国を正しいと出来る時空である。

魏・晋が半島を管理する時代に任那建国は存在しない。



734 :縄嘉ー:2012/02/15(水) 22:47:52.51
>>730
弁辰の条に
國出鐵、韓、wai[偏水旁歳]、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡
とあって倭が半島の鉄を使っていたことが分かる。
そして、九州の弥生時代の遺跡から鉄器が多く出土しているのに畿内では殆ど出土していない。

このことから見ても魏の時代に於いて畿内は倭国に含まれていなかったと考えられる。

735 :志紀:2012/02/15(水) 22:49:06.93
>>730
鉄も青銅も同時期に同一の道をたどって入ってきたんだから、稲作技術や土木技術と伝播セットで
考えれば、北部九州の優位はどう考えても揺るがないんですがね。
そのあたり、東大の学者は、表立って九州とか東遷とかは言わなくなってるけど、そのかわり理化学
的分析や色々と柔軟な仮説を立てている人はいますね。京大系はさっぱりですがw

眠いので、落ちます。

736 :sss:2012/02/15(水) 22:49:42.84
>>732
瓊瓊杵尊の長男の海幸彦と山幸彦の争いをどのように考えるかはなかなか難しい。
一般的には、隼人を支配下に置いたとするようだが、隼人が本当に大和朝廷の
支配下に入るのは8世紀に入ってからだから、ちょっとおかしいような気がする。

むしろ、九州北部勢の主導権争いと考えたらどうかとも思うのだが。
記紀的にも、熊襲などを除いた九州北部の主導権争いのようなものが見られない。
仮に、日向(宮崎)とすれば北部あたりとの軋轢があって当然とも思う。

神武天皇の東征もけっこうすんなり九州を抜けているように見えるから、すでに
このときには九州は磐余彦でまとまっていたようにも感じられる。
つまり、それ以前に決着は付いていたと。

古田説についてはあまり良く知りません。

737 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/15(水) 22:49:43.53
>>713 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 18:50:07.80
神武のころ、すでに暦はありましたよ。これは日本書紀ではないです。
神皇紀 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、十月を1年と定め給う。

太国倍年は存在しないとする主張か?


738 :sss:2012/02/15(水) 22:53:56.68
>>734
仮に、九州あるいは出雲で弥生時代に製鉄が行われていたとすれば、
近畿地方と九州の落差はとんでもなく大きいものになってしまう。
畿内説としては認めるわけにはいかないことになるのかな…。

739 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:07:52.40
鉄も青銅も同時期に とゆうのはいただけませんねえ

青銅のはBC1000とかでもなんもおどろかないけど

取天金山之鐵而のの高木~之子の  常世の思金~

別名たぶん宇都志日金拆命のは 常世の思金~だからして

錦海湾あたり根城のの神さんだろけど

天照組の座長格で仕切ってぽいのはBC200かもそっと前かつうかんじだろ

740 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 23:11:30.06
>崇神時代は、5,6年の災害(寒暑矢序)
>同11年の異俗多帰
>及び任那建国を正しいと出来る時空である。

正しいと出来る時空ではない。
千人もの農民が腹をすかして半島渡海など出来るか? 出来っこない。

任那は半島文献の120年等の大揺れからかつ情報量不足もあって、これが
解決すればおかしくない時点に落ち着く。その大揺れを無視しての決め
こみは、デタラメの温床となり、役に立たない。

宿主空年は存在しないとする主張か?

741 :縄嘉ー:2012/02/15(水) 23:13:51.59
>>738
畿内説派としては鉄の有用性を否定するしかないようである。鉄器がなくても水田耕作は出来る、木器でも
開墾は出来る、鉄器の導入によって国力が増大したという考古学的資料はない、などと言う。
常識で考えれば木器を作る工具としても開墾、灌漑などの工事用器具としても鉄器が石器にはるかに優るこ
とは分かるのであるが、頑として抵抗する。

そのように抵抗はするものの、
「魏書東夷伝に「倭が半島で鉄を取る」と記載されていることから鉄の出土の少ない畿内は倭国には含まれず、
倭種の国であった」という見方には有効な反論が出せない。

742 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/15(水) 23:14:05.24
>安寧、懿徳は異母兄弟。

これも書紀を違えるデタラメない。安寧、懿徳は異母兄弟でない。




743 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:20:54.32
博多湾岸勢力はどちらかというと鉄資源がある南下をめざしたのではないかと思います

744 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:22:49.39
倭の地は周旋五千余里、冬でも温暖、旧百余国今三十国、東渡海千余里復有国、どこから見ても
九州で決まりだよ。

745 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:35:39.88
弥生時代の鉄は輸入品だろ。
筑紫国エリア各国の鉄は糸島から早良区あたりで輸入。
肥国エリア各国の鉄は唐津から。

746 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 00:02:29.19
>任那は半島文献の120年等の大揺れからかつ情報量不足もあって、これが
解決すればおかしくない時点に落ち着く。

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末

ホケノ山古墳の鉄器は任那からの鉄である。
ホケノ山古墳には、初期の埴輪である穴あき壺が飾られる。
だから、ホケノ山古墳は垂仁末の墳墓である。
ホケノ山古墳には225〜250年の時空が与えられている。
であるならば、伊支馬は垂仁である。


747 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 00:13:39.58
>正しいと出来る時空ではない。

新羅本紀  193 倭人が大飢饉となり避難民到来
後漢 193年 6月寒風冬のごとし。
誤差は1年しか認められない。
太国が認めずとも、これは事実であり、弥生後期後半の出来事である。
唐古・鍵遺跡の環濠が埋没する。
青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。
近江伊勢遺跡の変化もこの時代である。
これらすべてが同じ時空の出来事であるためには、その出来事を特定できなくてはならない。
古記が太陰暦を』主張し、
垂仁元年及び仲哀9年を19年*n回の時空であることを主張している。


748 :ひとぶた:2012/02/16(木) 00:23:20.73
>>741

> 畿内説派としては鉄の有用性を否定するしかないようである。鉄器がなくても水田耕作は出来る、木器でも
> 開墾は出来る、鉄器の導入によって国力が増大したという考古学的資料はない、などと言う。

畿内説の中でも主としてヤマト自生説を想定したコメントでしょうかね。
私は鉄の効果を過大に評価するつもりはありませんが、鉄の有用性自体は否定しませんがね。

弥生時代、鉄分の多い九州と非鉄のヤマトが直接対峙すれば、その生産性の違いから優劣は簡単につくと思います。
ただし、実際には「直接の対峙」と言う状況はありません。
間には、緩衝地帯のように西瀬戸内、吉備、東瀬戸内が存在し、鉄分の「含有量」は西から東へなだらかに変化していきます。
これとは別に出雲・丹後の日本海ルートも存在しますが、九州の玄海灘沿岸地域が他を凌駕しているのでしょう。
つまり、隣接する地域間であればその力関係はそれほど劇的ではありません。
これが弥生後期までの西日本の状況。

> 「魏書東夷伝に「倭が半島で鉄を取る」と記載されていることから鉄の出土の少ない畿内は倭国には含まれず、
> 倭種の国であった」という見方には有効な反論が出せない。

弥生終末〜古墳草創期(畿内説的には2C末〜3C初頭)になると、鉄の西日本での流通は前時代に比べ画期的に変化します。
多分、韓伝に有る「半島の鉄」の輸入量が増加したのでしょう。
増加した理由を私は説明できませんが、公孫政権の混乱などで楽浪へ流通していたものの行き場が変わったと想像しています。
鉄は交易品として流通しますので、鉄の輸入が増えれば、それと「等価の輸出品」が必要です。
鉄の輸出者が弁辰諸国、倭側の輸入者が玄海諸国や出雲、これらの諸国は「輸出品」の調達が必要ですが、
自前で調達できない分は、別途国内交易で仕入れ無ければなりませんので、輸入した「鉄」を消費せず、
再び交易品として流通させることとなり、東への流通拡大が実現したのでしょうね。
ちなみに国内で調達した「輸出品」とは翡翠等の特産物や良質の「生口」です。





749 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 00:46:40.76
>鉄の輸入が増えれば、それと「等価の輸出品」が必要です。

崇神世の任那(金官伽耶210年)建国に協力したことにより、
弁辰の鉄採掘権を得た場合、日矛系(阿波・讃岐)がそれを実行し大和に鉄を供給する。
大和は鉄の供給権をもって、諸国を従えて行く。
古墳時代の大量鉄器副葬は、半島が倭の領土(神功49年以後)でなければ、説明できないほど大量である。


750 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 06:29:50.19
徹底的に九州はスルーなんだな、唐松山は。
こういうのを皇国史観っていうのかな。なんか頭ん中は、「昔からずっと大和(奈良)しか無かった」脳w
奈良に古い地名が少ないとかも知らないのかよこの馬鹿オヤジは。
弥生時代には畿内からは鉄器は出てこないとかも。

751 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 08:59:39.86
>徹底的に九州はスルーなんだな、

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

東倭とは、倭奴国に対する言い回しであり、統一倭国を大倭と表記する魏書。
南に至邪馬臺國,即倭王所都。は、東に書換えねばならない。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。


752 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/16(木) 09:26:37.45
どうも君らを見てると考古学を重視しているようだな。
銅鐸と神武東征を関連付けてみたり、
鉄資源の問題から邪馬台国を推理してみたり…。

まあ、どのように考えようと自由だが、考古学なんて好加減なものだよ。

753 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 10:14:45.66
>九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
倭国というのは、多数の国の連合だから、倭王は必ずしも同じ国の王がなるわけではない。
連合国の中の誰が担がれるかはそのとき次第だ。
したがって、卑弥呼が必ずしも倭奴国の王位継承者とは言えないんだよ。

754 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 10:18:07.67
いくら論争というか妄想してても仕方ない
邪馬台国と同時期の前方後円墳の存在など考古学的には近畿しか見当たらない

755 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/16(木) 10:58:24.04
卑弥呼の墓が前方後円墳だなどとはどこにも書いてない。
おまけに倭人伝に書かれている卑弥呼の冢が、本当に卑弥呼の墓のことなのかどうかも不明だ。
神功皇后とか、それ以前の日本の墳墓の伝聞を書いているだけかもしれないのだ。

墳墓なんて朝鮮にもいくらでもある。
卑弥呼の墓が朝鮮にあるかもしれないのだ。
朝鮮の古墳から親魏倭王の金印が出ても不思議ではないぞ。

考古学に頼るのはヘボ学者である。
文献だけで卑弥呼のいた倭国は推理できる。
それは朝鮮である。

756 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 11:05:57.94
>>754
古墳の年代なんてのはコロコロ変わる。
年代に限らず、畿内説にとって都合の良い解釈をし、考古学的には畿内だと
いうのが畿内説の常套手段。
いろいろ突っ込まれて破綻するまではそれを言い張り続ける。
破綻したら、次の都合の良い考古学的な解釈を作る。その繰り返し。

757 :矢部川:2012/02/16(木) 11:12:31.68
>>754
>邪馬台国と同時期の前方後円墳の存在など考古学的には近畿しか見当たらない

邪馬台国と前方後円墳は無関係だし。

758 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 11:52:25.55
>邪馬台国と同時期の前方後円墳の存在など考古学的には近畿しか見当たらない
前方後円墳の方があとだよ。邪馬台国は、魏と通交するよりも百年ぐらい前からある。
しかし、前方後円墳は魏と通交するよりも前にあったと確認されるものはない。


759 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 14:18:04.82
>>742 訂正
× デタラメない
〇 デタラメなり

760 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 14:25:45.30
伊支馬は垂仁でない。

伊支馬が魏成立前の217年に即位したというなら、倭人伝は伊支馬のことを官
などと〜大王の使用人の語で呼ぶわけがない。
つまり整合していない。

当然倭人伝は239年前後の当時大王伊支馬を書くのが当然だ。ww
さらに天皇には官はなれないのが掟であるからして、道鏡でさえ天皇にはなれ
なかったのは理ので当然ある。

おまけに伊支馬がその239年に突然死ではあまりにも不自然であり、論への疑惑
が高まるばかりだ。ww

つまり伊支馬が垂仁だというのは成立しない〜2ちゃん日本史板での最高級の
デタラメ噴飯論である。

761 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 14:29:14.67
>>747
太国が認めず、これは事実でない。

千人もの餓鬼集団が畿内から大陸に渡れるほど、日本海の荒波はゆるくはない。
古記が退院歴を』主張しようと、神武は太陽暦だと主張しておる。


762 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 15:49:44.52
唐松にはどんな退院歴があるのかな。

763 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 16:07:25.10
垂仁天皇(すいにんてんのう)
垂仁酋長は第11代酋長

垂仁(たりひと)
活目・入彦・五十狭茅(いくめ・いりひこ・いそさかや)
伊久米・伊理毘古・伊佐知(いくめ・いりびこ・いさち)
活目(いくめ)
生目(いくめ)
伊久米(いくめ)
伊久牟尼利比古

伊佐知(いさち) -- 佐治國!
垂仁(たりひと) -- 哆唎ひと! -- 渡人(たりひと)!
入彦(いりひこ) -- 居付いちゃったひとだろ -- むこはん!

難升米さんとかとお名前のコードが同じですねえ

伊支馬(いしま)を(いくめ)とよむのはこれは強引といわざるをえない

難升米さんクラスのひとの伝承が蝦夷酋長傳のなかに残存しているわけです。

764 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 16:28:40.60
控え目にいっても

卑弥呼のあたりの倭王の宗族とゆうのは

宗族の定義からはがっつしずれちゃっているけど

女の血筋で繋がっていくやつじゃからして

男系の血筋で繋がっていく酋長傳のはもとより嘘が混ざりこんでいる

765 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 17:01:50.30
>倭人伝は伊支馬のことを官などと〜大王の使用人の語で呼ぶわけがない。

箸墓は最初の大王墓である。
つまり、箸墓以前の纒向に大王は存在しない。


766 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:06:11.45
>>763
「東征毛人五十五國」からすると

「蝦夷酋長傳」とゆうより「毛人酋長傳」

767 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 17:44:32.92
倭迹迹日姫命が卑弥呼であり、箸墓が卑弥呼の墓であるという考えは、大正から昭和にかけて、徳島県
の中学教師であった笠井新也氏が ... それを支持される学者もいたが、箸墓築造年代が合わない(当時
は4世紀初め)と認められなかった。

箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、土器の科学分析の結果、西暦240〜260年に築
造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館の研究チームが発表した。

この墓を造るとき、逢坂山の石を運んで造ったのですが、墓まで20kmの距離があります。

箸墓には、逢坂山の石は使われていない。近くの川原石が使われている。
箸墓には、埴輪が存在する。
箸墓(当時は4世紀初め)が260年あたりの年代を得るためには、モモソ姫は2世紀末
でなければ、文献(日本書紀)と考古学が一致しない。


768 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 18:14:21.87
>>753
>卑弥呼が必ずしも倭奴国の王位継承者とは言えないんだよ。

纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、九州UA在来土器の衰退
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。九州UB
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。

邪馬臺國倭王の称号は、景行からであり、景行の九州遠征(247年から?)である。
九州遠征先発隊は、はじめに筑紫の夏磯媛(カンカシヒメ)にあいさつを済ませ、
九州東部方面から平定を進める。
この、夏磯媛(カンカシヒメ)こそ倭奴國王位継承の卑弥呼である。


769 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 18:25:57.06
>箸墓は最初の大王墓である。

何の根拠も無い。オマエの勝手極まりない強引な決めこみで、デタラメ
である。


770 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 18:44:17.02
発掘調査現場から(247回) 広報「わかざくら」 平成22年7月掲載
 箸墓古墳の築造は、日本列島はじまって以来の国家的大事業であったと考えられます。
確認された大規模な外濠状遺構は、列島最初の大王の墓にふさわしい、箸墓古墳の壮大な
全容を浮かび上がらせました。

太国の主張する、何の根拠も無い。オマエの勝手極まりない強引な決めこみで、デタラメ
である太国倍年は存在しない。

771 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 18:46:52.25
宿主の主張する、何の根拠も無い。オマエの勝手極まりない強引な決めこみで、デタラメ
である宿主空年は存在しない。


772 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 18:51:51.73
>>770

>景行天皇 240年〜261年
コチラが検証 ↓ すると、宿主空年はほ〜ら、インチキと判明。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

773 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 18:53:42.09
>>772 続き

>景行天皇 240年〜261年
コチラが検証↓すると、宿主空年はインチキと判明。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

774 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:00:00.86
754はおそらく19才名古屋だろう。何の論証もできず。ホラを吹いているだけだから相手にしなくていいよ。

775 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 19:17:51.70
>纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末
>廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
>前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
>纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
>纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
>纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
>纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、九州UA在来土器の衰退
>纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。九州UB
>晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。

>邪馬臺國倭王の称号は、景行からであり、景行の九州遠征(247年から?)である。
>九州遠征先発隊は、はじめに筑紫の夏磯媛(カンカシヒメ)にあいさつを済ませ、
>九州東部方面から平定を進める。

これらは墳飾決算であり、>>772>>773からもインチキと判明。

776 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 19:22:55.33
>コチラが検証↓すると、宿主空年はインチキと判明。【続 景行在位年代年表】

1年が何日であるか主張が無い。
主張が無ければ、太陰暦の60年が必要である。
景行に太陰暦の60年を認めるのか?


777 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 19:27:58.63
>>776
>1年が何日であるか主張が無い。

そんなものはある。
2倍暦だから180日余が1年だ。


>主張が無ければ、退院歴の60年が必要である。
>景行に退院歴の60年を認めるのか?

意味不明???

オマエ、退院歴60年なのか??ww

778 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 19:35:10.80
>>776
空年年が何処であるか主張が無い。→>>772>773


779 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 20:02:10.09
>2倍暦だから180日余が1年だ。

地球上の1年は365日を基準とする。
”180日余が1年”の暦は何処の暦なんだ?


780 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 20:15:00.08
>>710
弥生後期後半の北部九州を主とした地域の祭器であった広形銅鉾が、記紀に重要な祭祀具として記述されているのですか?

記紀に出てくる“矛”というのは、長柄の先に刃をつけた一般的な武器のことをさすのであって、
1m近くの大きさで柄をつけない青銅祭器とは別物でしょう。

地域的統合のための青銅祭祀の消滅は、銅鉾圏も銅鐸圏も同様の現象だったと思いますが。

781 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 20:16:34.30
>>741
> 「魏書東夷伝に「倭が半島で鉄を取る」と記載されていることから鉄の出土の少ない畿内は倭国には含まれず

極端な話、畿内から鉄が出土しなくても、「倭が半島で鉄を取る」という記載と不整合にはならない。
鉄の出土が少ないから畿内は倭国に含まれない、という理屈は成り立たない。

782 :志紀:2012/02/16(木) 20:25:01.76
>>781
生産地についてはその通り。出雲出土の青銅器も北九州産が多い。
ただ、鉄を産出しないのと鉄器が出土しない事とは違う話だよ。
農耕や狩猟など、非常に有為な新技術である鉄器が出ないというのは、即ち畿内が
北部九州に比べて圧倒的に遅れた文化レベルだったと言える。軍事的にも、同様。

783 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 21:09:20.94
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。

崇神世とは、崇神5年=後漢193年(新羅192年)〜新羅209年=崇神58年であるから、
崇神世 188年〜220年におさまる数字の中にしか存在できない。
そして、“鉄”を求めて、吉備などの国々が垂仁の元へ集合する。
景行は九州へ遠征する←3世紀半ば、北部九州に畿内の庄内式土器が持込まれる。


784 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/16(木) 22:33:28.36
>>779
”385日余が1年”の暦は何処の暦なんだ?
        ↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

>>783
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

785 :縄嘉ー:2012/02/16(木) 23:00:24.35
>>780 :日本@名無史さん
儂の書き込みの主旨は分かってくれておいでかな。

それはそれとして
畿内の銅鐸が祭祀具であることは認めるのでしょうな。その祭祀具の銅鐸が記紀には登場しないから
大和朝廷の祖達は銅鐸を祭祀具としていなかったと考えられるじゃろ。祭祀具は重要なものじゃからの。

国生み神話で出て来る鉾は武器かね?神武東征に出て来る霊剣(布都御魂)は武器というより祭祀具に近い
ものではないかの。

786 :縄嘉ー:2012/02/16(木) 23:06:40.27
>>781
>極端な話、畿内から鉄が出土しなくても、「倭が半島で鉄を取る」という記載と不整合にはならない。

確かに極端な話ですな。
倭が半島で鉄を取る」ならば、倭の盟主国の邪馬台国に鉄器が無い筈はありませんな。
邪馬台国は鉄を使わず気前よく他国に配ったのですかな。

787 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 23:21:24.84
その頃から祭事だけして強大国におもねり支えてもらってたんじゃないの

788 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 23:23:10.35
>>784

景行三年春二月,庚寅朔
景行四年春二月,甲寅朔 この1年間は、閏月を含み384日である。
太国が無視してもこの数字は変えられない。

>偽書といわれる書物を持ち出した〜〜
偽書とは、この書記の主張を無視する数字を正しいとすることである。
ホツマは古記の主張する日本書紀の太陰暦を支持している。
江戸時代の偽書大成経や明治時代の偽書神皇記を正しいと主張する太国倍年は存在できない。


789 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 23:29:15.73
弥生遺跡から鉄器が出るのは九州だけではないし、畿内説は自生説だけではないので
あまり単純に考えないほうが良い

790 :縄嘉ー:2012/02/16(木) 23:55:06.66
>>789
いや、これは実に単純な話でござるよ。
鉄器の出土がほとんど無い畿内に倭人伝に書かれた邪馬台国は有り得ないということですからの。

791 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/16(木) 23:59:46.08
垂仁天皇元年(壬辰前二九元年春正月丁丑朔戊寅。
垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔癸酉。
垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
垂仁元年11月壬申朔・12月壬寅朔。閏12月辛未朔・2年1月辛丑朔・2月辛未朔
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇十二月戊戌朔辛亥。

垂仁元年は、古記のいう19年7潤の最終年である。
仲哀9年も、古記のいう19年7潤の最終年である。
垂仁元年は、任那より最初の朝貢団がまだ帰国せずに駐留している。
任那建国は、210年ころである。
仲哀9年は、神功渡海の年である。渡海が可能でなければならない。
垂仁元年と仲哀9年は、19年7潤の最終年でなくてはならない。
217年垂仁元年〜274年仲哀9年=57年


792 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 00:35:09.14
垂仁治世99年 217〜239年+空白の4章(76年)
仲哀治世9年 266〜274年まで
任那よりの朝貢団が纏向に留まり、珠城宮の建設に関与する。3世紀前半の大型建物。
239年 官伊支馬による都市牛利(田道間守)派遣まで
ホケノ山。3世紀中葉の大型建物。庄内式土器の九州上陸。
大倭は伊都国に1大卒を置く。
275年 神功元年 1大卒の行為を半島で行う。
323年 神功49年 千熊長彦 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
326年 神功52年 七支刀 
東晉明帝太寧4年:丙戌 西元326年2月19日。1月壬辰朔
で5月庚寅朔が得られる。5月庚寅朔とすると、17日丙午となり、1日遅れる。

古代の暦は古記の主張する太陰暦が使用され、その使用方法として“空白年の差し込み”
が存在した。


793 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 01:13:43.82
>>790
倭人伝には軍事強国が戦乱を終結させたようなことは書かれていません
祭祀王が共立されたと書かれています
鉄器の有る無しと卑弥呼が居る王都とを直接的に単純に関連付けることはできません
日本のことが書かれているのは倭人伝の部分だけではないので、東夷伝全体を丁寧に
読まれた方がいいでしょう

794 :志紀:2012/02/17(金) 07:52:29.96
黄幡はいくさの旗じるしだよ。
「倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし」
卑弥呼がどう戦闘をおさめたか、そのプロセスは不明だが、各地で大規模な戦闘があったのは、
吉野ヶ里など各地にその証拠は多い。ここまでの大乱を起こす理由として、漢の支配力がよわ
まっただけでは理由としては弱いんじゃないかな。やっぱり戦乱の最大の動機は鉄だよ。

795 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 07:56:11.70
戦乱については、
筑前筑後肥前に限れば、弥生遺跡の多さから見て、
人口の限界だったのかも。

当時居住可能な場所と思われるところは、
遺跡でびっしり。

796 :志紀:2012/02/17(金) 08:04:05.62
それもあっただろう。海側から見ると、ずっと山手の方までびっしりと田んぼや住居が並ぶ事になる。
壮観だったろうねw 魏の使いが「七万戸」と言われても容易に信じてしまう密度w

797 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 09:28:08.74
また根拠もない妄想かよw

798 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 09:34:10.75
>>790
淡路島の垣内遺跡は?
畿内に鉄器が出ないといっても、弥生末期に
最大規模の鉄器工房が存在する説明がつかないよ。

799 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 10:12:36.16
有明海沿岸は当時九州最大の人口密集地帯だ。
筑後平野にはもちろんあるが
佐賀平野には九州最大級の貝塚がある。
海岸から10q以上も離れた内陸部で水田を少し掘れば
海の貝殻がたった状態で隙間無く密生しているので
裸足で入れば傷だらけになる場所もあるそうである。

また
漁師でもないのに素潜りで魚を捕らえてくる人もいる。
つまり
有明海沿岸は明治大正時代は冬でも野菜があり
裸足でいる人が多かったほどの比較的温暖な地域で
野菜や豊富な魚介類などを食して
食料は比較的安定していたのかもしれない。

だから
無数に島のある筑紫平野の山沿いには
びっしりと縄文弥生時代の遺跡が密集している。
http://flood.firetree.net/
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG

四世紀には判っている限りでは
筑紫平野の国々は八女津姫、田油津姫など
全て女王が統治しており平和な状態である。

にもかかわらず
吉野ヶ里遺跡などでは鏃の刺さったり
首のない遺体がが埋葬されたりしている。
(続く)

800 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 10:12:52.64
伊都国があったと考えられる佐賀大和は
≪「此の国は栄の国と謂ふべし」とのりたまひき。因りて栄の郡といひき。後に改めて佐嘉の郡と号く。≫
と言われるほど繁栄していた。

現在でも言えることだが
人口密集地帯は栄えている大都会なのである。
ならば
当時九州最大の人口密集地帯の筑紫平野は
食料も豊富な当時は九州最大の大都会だったのである。

にもかかわらず
四世紀以前の筑紫平野には巨大古墳もなければ
王権を示す特筆すべき品もない。
つまり
筑紫平野の国々は女王が統治する平和な大都会であり
権力の誇示とか領土の拡大には無関心だったようなのである。
(続く)

801 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 10:13:21.69
四世紀になると
有明海沿岸の諸国はある勢力により統一されていく。

その勢力とは
神功皇后、景行天皇などの大和朝廷の勢力である。
ところが
神功皇后にしても景行天皇にしても
九州では大活躍をしているのに
畿内では存在自体が疑問視されるほど存在感がない。

神功皇后に至っては
九州北岸地域で心からくつろいでいるばかりか
九州北岸地域で兵を集めたり出産までしている。
さらには
神功皇后の妹は佐賀大和の女王にまでなっている。
(※たとえ佐賀大和が当時の大都会だったとしても
神功皇后の妹までもが畿内から来て
そこの女王となつて留まるとはあまりにも不自然。)

つまり
何を言いたいのかと言えば
神功皇后にしても景行天皇にしても
本当は
九州の人ではなかったのだろうかと言う事である。
しかも
それは九州北岸、博多湾岸地域の勢力である。
(続く)

802 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 10:13:49.31
だとすれば
倭国大乱の原因がおぼろげながら見えてくる。

有明海沿岸は九州最大の繁栄した平和主義の大都会だった、

有明海沿岸に次ぐ大人口地帯の九州北岸地域の勢力は
平和主義と言うよりも諸国の統一という事に関心があった。
(※韓国にまで関心を持つほどに)

だとすれば
倭国大乱とは
博多湾岸地域の勢力が有明海沿岸諸国を支配しようとして起きたものではなかろうか。

このように考えれば
四世紀には平和主義だったように思える有明海沿岸地域に
戦乱の痕跡が多くある理由も説明が付くし、
四世紀以降に
神功皇后、景行天皇などにより有明海沿岸地域が
支配された事にも説明が付く。
(※倭国大乱で学習したのか、戦闘を伴わない謀略などの方法で支配渡洋としているようである。)

また
四世紀以降に有明海沿岸地域の筑紫平野には
大古墳ができたり
筑紫の君磐井などの九州の広範囲を支配地域にする
支配者が現れたりする事にも説明が付くのである。

803 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 10:47:51.95
倭国大乱とは
博多湾岸地域の勢力下にあった有明海沿岸諸国が独立しようとして起きたものではなかろうか。


804 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 11:02:25.36
>神功皇后に至っては
九州北岸地域で心からくつろいでいるばかりか
九州北岸地域で兵を集めたり出産までしている。

この時点で神功皇后が卑弥呼ではない事が確定だからな。
記紀上での卑弥呼は、大物主に嫁いで子がいないモモソ媛の事だろう。


805 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 11:04:58.33
有明海沿岸を領域としていた肥国連合に、
筑紫勢力が、斬り込んだような印象を持っている。

肥前と肥後が、久留米以南の筑後地域で分断されているのは不自然。

おそらくは、筑後川以北が筑紫勢力、ただし、鳥栖以西は肥国勢力。
甘木朝倉地域は筑紫の領域。

本来は肥国勢力の久留米を筑紫が奪取し、大牟田までを筑紫の勢力下とした。


806 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 11:24:03.93
いい加減もうやめろ。
ほとんど勝手な妄想推測ばかりじゃないか。
こんなんならやるだけ無駄だ。

807 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 11:26:09.83
景行天皇十二年秋七月。熊襲反之不朝貢。(247年)
景行天皇十二年八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十八年春三月。天皇将向京、以巡狩筑紫国。始到夷守。・・・諸県君泉媛。
景行天皇二七年冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊、令撃熊襲。時年十六。
神功前紀 二月。足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。
神功前紀 三月。転至山門県。則誅土蜘蛛田油津媛。(274年)

熊襲が大和の勢力下であったことは無い。
景行軍はまず 筑紫の神夏磯媛に挨拶を済ませ、九州東岸方面から平定を始める。
夷守とは、奴國の官であり、渡海ルートを監視する。この夷守が兄と弟に分かれそれぞれ
別の勢力を支持する。
景行元年生まれの日本武尊16才の遠征先は、佐賀方面である。
この方面の熊襲は、神功の土蜘蛛田油津媛と同じ勢力である。
諸県=玄海町諸津。田油津媛=田平(平戸)。

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。


808 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 11:31:38.90
ま、箸墓は別にしてもヒミコ=モモソなのは確定だな。

809 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 11:48:25.01
ヒミコ=モモソで纒向を説明することが出来ない。

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物[古韓尺の使用=任那より朝貢]
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 [九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]

810 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 11:58:58.55
>ヒミコ=モモソで纒向を説明することが出来ない。

あんたの妄想ワールドが根本的に間違ってるだけの事。



811 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 12:14:22.43
>あんたの妄想ワールドが根本的に間違ってるだけの事。

土器編年は考古学の言い分であり、私の独断ではない。
箸中山古墳(250±10年)←これを260±10年とするのは私の独断であるが、
その前に庄内式土器が北部九州に上陸するのは考古学の言い分であり
長畑馬場遺跡 は長崎県の言い分である。
伊支馬がイクメ=垂仁は数字合わせのための私の推定である。
ホケノ山の穴あき壺(庄内式)を埴輪と判断するのは考古学である。←この言い分が正しければ「垂仁末の墳墓」は書記の記述に従う。



812 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 12:14:34.69
>>803
>倭国大乱とは博多湾岸地域の勢力下にあった有明海沿岸諸国が
独立しようとして起きたものではなかろうか。

だとするならば
卑弥呼共立で和解した有明海沿岸諸国を四世紀以降に
攻めたり支配下に組み込む必要は無いことになる。

>>805
>有明海沿岸を領域としていた肥国連合に、
筑紫勢力が、斬り込んだような印象を持っている。

そのような痕跡も伝承も皆無でしょう。

>肥前と肥後が、久留米以南の筑後地域で分断されているのは不自然。
おそらくは、筑後川以北が筑紫勢力、ただし、鳥栖以西は肥国勢力。
甘木朝倉地域は筑紫の領域。

筑紫平野の勢力を筑後川で分断する方が不自然だ。
末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国などの
女王国(邪馬台国)以北は卑弥呼の勢力だろう。
ならば
筑後川で分断することはできない。

周旋可五千餘里からしても
肥後は狗奴国の勢力と考えるしか無い。

813 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 12:34:26.20
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]

考古学の主張する年代に文献と書記の記述を整合させた。

旧編年
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

ヒミコ=モモソで纒向を説明するためには、旧編年に文献と考古学を整合させればよい。
しかし、半島を魏・晋が管理する時代に任那建国は無い。238年に金官伽耶(狗邪韓国)は存在する。
七支刀=369年を正しいとした場合、半島占拠は否定されている。←韓国・日本の双方の共同認識である。

旧編年は、妄想と判断できる。


814 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 13:02:03.49
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。 崇神11年異俗多帰。
崇神10年のモモソ姫の葬儀は、銅鐸祭祀から古墳祭祀への変換点を意味する。
それは、崇神5,6年の疫病(災害。飢饉=食人を伴う)により、それ以前の神が民の食料を保証しなかったため、民が自ら銅鐸祭祀を拒否した。


815 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/17(金) 13:10:50.14
>この1年間は、閏月を含み384日である。

あああそうかね。オマエは1年が365日余以外はこの地球上に無いt

816 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/17(金) 13:15:26.32
失礼 書きこみミス やり直し

>この1年間は、閏月を含み384日である。

あああそうかね。オマエは1年が365日余以外はこの地球上に無いと
頑張っていたが、これでは自語相違ではないか。
1年が365日余以外の日数の暦法があったんだから、オマエのコチラへの
突きはオマエの首をオマエが絞めたのも同然のコチラへのけん制では
ないかね。ニヤニヤww・・・

>>779
”265日余が1年”の暦は何処の暦なんだ?
        ↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

817 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 13:26:21.99
>>812
>筑紫平野の勢力を筑後川で分断する方が不自然だ。

筑紫野市と基山町の間に三国って地名がありましてね、
ここに、肥前と筑前、筑後の境になる三国境碑ってのがあります。

8世紀の肥前風土記にも、この境のことが載っています。

そして、ここからほぼ真南、高良大社に向かい、筑後川に当たって、
あとは河口まで、肥前と筑後は筑後川で分断されているのです。
基山から鳥栖、佐賀に至るまで、肥前風土記に記載がありますから、
少なくとも風土記が編纂された時代にはすでに分断されていたと思われます。



818 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 13:34:42.52
>あああそうかね。オマエは1年が365日余以外はこの地球上に無いt

太陰暦は、1章=19年7潤=6940日を基準とし、4章で1日を減ずる。
この4章=76年の平均値が1年365.25日となる。
だから、200年程度で太陽は月に比べて1日遅れる。
ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ 垂仁元年秋太陽に遅れがみられるので冬至日を調整する。
垂仁元年は、19年7潤の最終年である。古記の言う最終年として仲哀9年が存在する、垂仁元年もその19年単位の最終年であることは
書記の朔が支持する。書記には”正朔”の文字がある。

>>779
地球上の1年は365日を基準とする。

太陽太陰暦。つまり、太陰暦+24節季の24節季は、1年を365日を基準とする。

>”265日余が1年”の暦は何処の暦なんだ?
こちらがききたいよ。どこにそんな記述があるんだ?


819 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 13:36:38.03
垂仁天皇元年(壬辰前二九元年春正月丁丑朔戊寅。
垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔癸酉。
垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
垂仁元年11月壬申朔・12月壬寅朔。閏12月辛未朔・2年1月辛丑朔・2月辛未朔
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇十二月戊戌朔辛亥。

垂仁元年は、古記のいう19年7潤の最終年である。
仲哀9年も、古記のいう19年7潤の最終年である。
垂仁元年は、任那より最初の朝貢団がまだ帰国せずに駐留している。
任那建国は、210年ころである。
仲哀9年は、神功渡海の年である。渡海が可能でなければならない。
垂仁元年と仲哀9年は、19年7潤の最終年でなくてはならない。


820 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/17(金) 13:39:53.87
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

>>”265日余が1年”の暦は何処の暦なんだ?
>こちらがききたいよ。どこにそんな記述があるんだ?

オマエらしき者が頁の左端に書いてるではないか。ww
        ↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

821 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 13:45:14.01
>土器編年は考古学の言い分であり、私の独断ではない。

自分に都合よく解釈してるだけでしょ、妄想に合うようにw


822 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 14:03:49.33
>オマエらしき者が頁の左端に書いてるではないか。ww
        ↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG
オマエらしき者と判断されても↑見ることが出来ない。
見ることのできる貼り付けにしてくれ。


823 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/17(金) 14:09:17.63
オマエの脳内で見られる。ppp

824 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 14:10:23.03
>>821
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
この纒向新編年による数字である。


825 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 14:33:56.99
>>817
>筑紫野市と基山町の間に三国って地名がありましてね、
ここに、肥前と筑前、筑後の境になる三国境碑ってのがあります。

ウキィペディアによれば
〓〓〓〓〓〓〓〓
○肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
○火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇10年(696年)までのどの時点かに、肥前国と肥後国との分割があったと推定される。
〓〓〓〓〓〓〓〓
とあります。

筑前、筑後、肥前、肥後の境界が作られたのは
四世紀以降九州中北部が統一されてからの話ではないのですか?

それ以前の境界は国と国であり、
それらの国が
博多湾岸勢力、
筑紫平野勢力、
熊本の狗奴国勢力
に分かれていたと考えています。

筑紫平野勢力は四世紀以降に博多湾岸勢力に支配されていき、
四世紀以前は明らかに別勢力です。
そして
その南に
それらの勢力とは別に、それらの勢力と
対等に対立できる勢力(狗奴国)が合ったとすれば熊本の勢力しかないと考えています。

826 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 15:27:07.08
>>825

7世紀後半から8世紀前半に書かれた記録では、
肥国が肥前、肥後に、そして、筑紫国が筑前、筑後に変わったと書かれています。

つまり、それ以前は肥国、筑紫国だった事がわかります。
そして別れたのは、少なくともこの記録が書かれる前であることもわかります。

この肥国、筑紫国が成立したのはいつの時点かはわかりません。
わかるのは8世紀以前ということだけです。
4世紀以降かもしれません。これは否定できません。

そして重要なのは、肥前と肥後は肥国という一つのまとまりだったことが伺えます。
つまり分かれていなかったということです。
肥前は長崎まで含むと巨大国家ですし、
肥後国も熊本全域に球磨地方まで含めば、そうとうの巨大国家になります。

そして、吉野ヶ里のように明らかに戦争の跡が多出する遺跡もあり、
倭国騒乱は、筑紫国(奴国?)との戦いだったと考えています。
多分それは久留米からみやまを含む領域での戦いだったのでしょう。

その象徴が基肄城であり、高良大社でしょう。激戦地はこの二城のラインでしょうか。
ここには国境をつくりやすい地形状態ではありません。
戦いは収まらずに、一進一退を続ける状況になりやすい場所です。

827 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 16:07:08.68
熊本は九州の中心だからなあ。
福岡、大分、宮崎、鹿児島と接しているし、有明海を挟んで佐賀、長崎とも
接しているといえる。

828 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 17:01:37.91
>>826
>7世紀後半から8世紀前半に書かれた記録では、
肥国が肥前、肥後に、そして、筑紫国が筑前、筑後に変わったと書かれています。
つまり、それ以前は肥国、筑紫国だった事がわかります。

再掲にになるけど
四世紀には
筑紫国の筑前(博多湾岸) 勢力は
筑紫国の筑後(筑紫平野)勢力を攻めています。
つまり
少なくとも四世紀までは筑前筑後は同一勢力では無かったのです。

>肥前は長崎まで含むと巨大国家ですし、
肥後国も熊本全域に球磨地方まで含めば、そうとうの巨大国家になります。

個人的には
四世紀以降の話だと思います。
卑弥呼の時代に
筑紫平野を挟んで長崎佐賀熊本が同一勢力だったとは思えません。

>その象徴が基肄城であり、高良大社でしょう。激戦地はこの二城のラインでしょうか。

天智天皇が665年(天智4)に筑前国の大野城とともに建設した基肄城や
四世紀の高良大社は
二世紀の倭国大乱や
三世紀の卑弥呼とは関係はないはずです。

829 :俾魅孤:2012/02/17(金) 17:29:53.03
基本的に3世紀あたりだと佐賀平野なんてものは無いんだよな

吉野ヶ里なんてのは水辺の植民用の砦なんだろ

そこのの前はむつごろうさんの楽園だろ

火國の発生源は唐津の衣干山あたりとみるのが妥当かもな

830 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 17:34:43.05
火国とは何じゃいキチガイ

831 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 17:56:19.14
肥 こえ とゆうのは卑字

熊 くま とゆうのも卑字 だろな

糞溜めに鶴かよ

832 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:08:00.10
>>828
>筑紫平野を挟んで長崎佐賀熊本が同一勢力だったとは思えません。

実は同感なんですが(苦笑)、なぜこんな広域を肥国と決めたのでしょうね?
とりあえず、自分の直感はおいといて、広域の肥国が設定された事実から推論しました。

肥国が設定された以上、その領域にはなんらかの関係が見いだせるはずであり、
また、筑紫国が別に設定されている以上、肥国と違う理由があるはずなのです。

そして、筑紫国や肥国をいつ誰が設定したかという記録はありません。
おそらく、誰か個人が強権的に設定したものではないと考えています。
自然発生的な文化圏であろうと思います。

倭国大乱に置いては、基肄城も高良大社も、周辺には古墳時代以前の
弥生時代のものと思われる遺跡は大量に存在します。

いつの時代でも、軍事的に優勢になる拠点はそう変わらないものですよ。
城がなかったからといっても、砦として利用しなかったとは言い切れません。

後、4世紀に筑前が筑後を攻めたっていうのは、なんの戦のことでしょうか。
教えていただければありがたいです。

833 :志紀:2012/02/17(金) 18:17:28.33
>>828
その天智天皇が本当にそれらの防衛施設の建設指令を出したのかどうかについても、
全然考古学的な裏は取れてないけどね。

834 :俾魅孤:2012/02/17(金) 18:19:18.14
良く考えると

「末盧國 有四千餘戸」のところでそこの官の記載が無いとか

菜畑遺跡から繋がる桜の馬場遺跡の卑弥呼もどきのいそうなのが

騙られていないのがへんですよねえ

桜の馬場遺跡出土の鏡なんて平原のと近似のレベルのだから

卑弥呼もどきがいても不思議では無いよな。。。。

そこで 奴國の二重記載が絡んでくるのかああ なるほどねえと・・・

835 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:23:42.34
わからないままに疑問を提示しますが、
肥前国風土記では、先に肥国があり、その後肥前、肥後に別れたと
記述されています。

常識的に考えれば、先に肥前国、肥後国があり、
戦乱を経て、合併支配されるものだと思うのですが、
どういう経緯になっているんでしょうね。

筑紫国が筑前国と筑後国に別れるのも同様の疑問です。

836 :俾魅孤:2012/02/17(金) 18:24:50.81
桜の馬場遺跡の卑弥呼もどきのは、

実は、卑彌弓呼で血縁関係で王を名乗れるポジションにある

こんなとこでうまく落ち着いちゃったりするんだよな

837 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:28:27.21
唐津が肥国の領域であるのも、なかなか意味深な気がしますね。
筑紫国は博多湾や糸島半島から、大陸の交易を行えばいいわけですが、
唐津を筑紫国が取ると、肥国は長崎を回った遠回りの航路で交易をしなければならなくなります。

肥国は唐津を「死守」したのではないでしょうかね。

838 :俾魅孤:2012/02/17(金) 18:30:51.31
てかね もうさ なれあいだね

839 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/17(金) 18:39:15.38
天皇問其火光之処曰。何謂邑也。国人対曰。是八代県豊村。亦尋其火。是誰人之火也。然不得主。茲知非人火。故名其国曰火国。

火国の名付け親は景行だろ。


840 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:41:41.40
一般的には常識とされている、
 真実は一つだけ
 怒りは自然な感情
 戦争・テロは無くならない
 死刑には殺人の抑止力がある
 虐められる側にも虐めの原因がある
 自己チューな人間ほど自己愛が強い
などの間違いを解説ちう m9(`・ω・)ビシ
感情自己責任論

841 :志紀:2012/02/17(金) 18:41:49.00
>>835
行政区分として7世紀末に全国的に分割されたと言われてるね。
実際のところどのような命令で何故分けられたのかはわかってないが、どこもあとから
「前」「後」に分割されたのは間違いない。
だって、自分の国を自分で「筑前」とか「肥前」とか呼ぶわけないじゃんw

842 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:45:16.72
邪馬台国エジプト説の投馬国

こんなのみっけ

843 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:49:36.22
「前」 「後」で分けるのは明らかに上から目線ですな。
肥前風土記自体は、肥前国庁でまとめられた資料が太宰府に送られ、
そこで編集された風土記が、朝廷に送られたものとされています。

そして、朝廷では各地の風土記が散逸して、各地の役所に、
残ってたら完全でなくても良いから送れ、って再編纂したという話もあるようで。

散逸したってのは、朝廷に何が起こったんだろう、と深読みしたくなる。

844 :筑紫次郎:2012/02/17(金) 18:52:36.79
>倭国大乱に置いては、基肄城も高良大社も、周辺には古墳時代以前の
弥生時代のものと思われる遺跡は大量に存在します。

筑前筑後は山沿い、山裾は何処でも遺跡の宝庫です。

>筑紫国が別に設定されている以上、肥国と違う理由があるはずなのです。

名前との関係があるという証拠は無いが
筑紫国の筑前は三世紀までの
筑紫国の筑後は四世紀以降の
親大和朝廷の勢力の本拠地。御陵、天皇屋敷跡などがある。

>4世紀に筑前が筑後を攻めたっていうのは、なんの戦のことでしょうか。

http://himeluna.exblog.jp/16008274/
神功皇后(5)
筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

また
筑後平野の八女津姫は
恐れたのか(私の勝手な妄想)
道もなく(現在は山の斜面を削って道がある)
深い谷川を幾つも越えて
八女市から28q以上も離れた山奥の人里離れた場所に住んでいた。
http://nonphoto.exblog.jp/4844148

先日行ってきたがあまりの山奥であるのに驚いた。

845 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:52:43.33
>>842
どこに?教えてくれ。そういうの好きだ。

846 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:52:48.08
ひのくにの初期は佐賀大和から熊本の山都郡までの農耕民
南限以降は熊襲の領域で西部は土蜘蛛の山間勢力や漁民の土地

847 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:55:56.47
>>839
そんな後世後付けの牽強付会が真実であった試しは無い。

>>828
火の国が拡大した事(通説ですが)、間に貫入するように筑紫がある事、こんな分割は他にはない。
これを普通に考えれば、

1 火国の北上 → 拡大
2 筑紫国の南下 → 拡大(取り返し?)

となるのではないでしょうか。
邪馬壱国が救援を求めた理由は、国内の軍事面では南からの脅威(狗奴國の男王卑弥弓呼)で、
壱与統治の後も圧力が増大して遂に肥後経由長崎ルートが火の国に併合された。(吉野ヶ里が南に
防御しているのは、呉ではなく火の国の侵入への防御ではないか。)
が、また後に北部九州勢が巻き返して、佐賀県北中部領域を取り返した。
こういうストーリーが描けます。

848 :俾魅孤:2012/02/17(金) 18:58:20.67
唐津の酋長のはそこから南のほおのがテリトリー設定で鉄とかお持込なんでしょ

849 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:00:59.05
>>844
>筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

ああ、奥八女の日向神ダムとかあるところですか。
冬に行って雪が降っててひどい目に会いました。

あそこも不思議な場所ですね。
日向神ダムの日向神というのも意味深です。


戦の一般論としては、山中での戦はあまり大きい戦になりません。
大軍を送れないので、ゲリラ的な戦いとなります。

倭国大乱は大軍のぶつかる平地の戦争ではないかという印象を持っています。

850 :俾魅孤:2012/02/17(金) 19:01:46.69
間に貫入するようにある筑紫のはほぼムツゴロウさんの楽園ですねえ

851 :志紀:2012/02/17(金) 19:10:40.52
>>850
確かにそうなんだけどね。泥の海が広がってたと推定されてる。
でも、推定されてる海岸線と遺跡とが一致してなかったり色々あるから、一概に
海進海退や沖積平野の形成だけで各時代の海岸線が決まるわけじゃないと思うよ。
佐賀でも、吉野ヶ里から諸富町まで弥生遺跡が連なってたりするし。
それに、湿地帯は稲作に有利だから、悲惨な泥田だけじゃなかったと思う。

852 :俾魅孤:2012/02/17(金) 19:16:18.03
ムツゴロウさんの楽園とゆうことは

蒲焼とかで

まいにち腹いっぱいいただけますね

853 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:16:20.40
大川とか城島とか、平坦に見えるけど、微妙に高くなってるみたい。


854 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:20:47.57
筑後川の河口に行ったら、ちょうど干潮で、
ムツゴロウさん、いっぱいいたね。
小さいのがトビハゼさんかな。

ハゼの仲間は余り匂いが強くないし、白身だから、
蒲焼みたいな濃い味にしなくても、
刺し身や天ぷらでおいしいよ。

でも、案外食える店が少ない。

855 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:52:29.57
>>842 
http://21seikinokadai.blog15.fc2.com/blog-date-201005.html

856 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:58:42.93
>>855
ここまでいくともう誰も反論せんだろうな

857 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:01:53.82
>>851
湿地帯でも海水が混じってると稲が育ちませんね
現在でも台風の後の塩害があります

858 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:15:41.09
ムツゴロウさん美味いからご飯とかいらね

859 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:31:12.07
>>855
ありがとう。すげえ。おれが昔作った「エジプト説」よりよほど手が込んでる。負けた(爆)

ちょっとだけツッコミ入れると、ファイストスの円盤の読みの方向が間違ってる。
やっぱりトンデモはこうでなくっちゃwww

860 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:55:38.52
>>855のリンク先は、無限尿よりマトモじゃないかw

861 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 21:00:41.92
夢さんもこれくらい大風呂敷広げれば面白かったのに
本人はけっこう本気だったりするからつまらんプゲラ

862 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 21:25:48.13
ちょっと怖かった神代文字
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/gengokenkyu/mojishico/kamiyomojico.htm

863 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 01:21:50.95
>>851
>吉野ヶ里から諸富町まで弥生遺跡が連なってたりするし。

倭人伝にも
≪絶在海中洲島之上或絶或連≫と記載があるでやんす。
島や津の付く名前が多いでやんす。
島だったのでやんす。

864 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 07:18:03.00
>>816
いくら嫌味を繰り返しても、180日余の1年は地球上の暦とはならないから
心配せんでもよい。


865 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 07:46:32.16
>有明海沿岸を領域としていた肥国連合に、
>筑紫勢力が、斬り込んだような印象を持っている。
筑紫君が討たれたときに、それに乗じて肥国(熊本県)の
領主が筑紫国から肥前を切り取ったという説があったよ。

866 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 09:44:30.80
>>864
いくら嫌味を繰り返しても、180日余の1年は地球上の暦とはなるから
心配せんでもよい。

古代マヤの太陰暦は典型的な2倍暦であり現今でもパラオ等でこの暦法が行使
されているのである。

オマエは2ちゃんでは1年が365日の暦しかない素振りを示しながら1年が385日
だとか秀魔電を出して論をしながら365日を否定してる事は、オマエ自身では1年
が365日以外の暦が地球上にあっていいらしく、自語相違の支離滅裂性の脳内活動
を活発化させている。、bbb・・・

ついでにオマエの論説↓らしい

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

では、平気でオマエ\が地球上にないという1年が385日だとか1年が265日
だとかの〜その暦法を細かく肯定している。ww


867 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 14:05:47.46
>平気でオマエ\が地球上にないという1年が385日だとか1年が265日
だとかの〜その暦法を細かく肯定している。ww

1年が384日の暦は、古記が主張する暦である。

>1年が265日の暦は、太国の書き込みの中にしか存在しない。←だから太国が責任をもって処理すればよい」。
そこでだ、太国は、1倍・2倍・3倍の暦が並行して使用されたと主張しているが、
これらを並行して使うためには、それぞれの暦の表記方法が違わねば分類できない。
たとえば、1月3日と表記されても、すべての暦法に存在するのであれば、日付の特定ができない。
1倍暦の1月3日は2倍暦の1月3日であり3倍暦の1月3日なのか?そうじゃあないだろ?だからそれぞれの倍年の
呼び方が必要になる。
かわいそうに、用意できなくては倍年の主張もできない。




868 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 15:13:16.85
1年が265日の暦は、↓の書き込みの中に存在する。←だから宿主が責任をもって処理すればよい。

しかし1年が265日の暦法(1年が365日に100日不足の暦法)は古代エジプト
でも行使されており、1年が365日でない暦法はこの地球上に存在する。

今から3億5千年前の地球上は、1年が400日近くあったといわれ、この
ことは珊瑚の年輪の調査から確認されている。平成19年3月の6CHの
「世界不思議発見」でも紹介されている。

北海道のアイヌの伝承でも 夏の年、冬の年 という暦の表現があり、
昔の蝦夷では2倍年暦を行使していた形跡がうかがえる。

またB.C.46年においての古代ローマでは1年が365日ではなく、1年が
445日で行使されていわものであり、1年が365日以外この地球上にないと
いう宿主の主張は大ウソも甚だしく、古代マヤの太陰暦Cは典型的な2倍暦法
であって、中南米のパレンケー、ティカル、ナランホ、コパン等々の
各石碑にその暦法がマヤ神聖文字にて刻まれているのは、2倍暦法存在の
動かぬ証拠である。

つまり1年が365日以外の暦法は、この地球上に厳存する。
これの左側2行に1年が365日でない1年が385日と1年が265日である暦の
ことが宿主らしい人物により書かれている。ww
        ↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

869 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 16:08:39.48
筑紫君磐井が大伴氏、野氏連合軍に敗れ英彦山に逃げ込んだのだけれど、
この日出日子山こそ邪馬台国の女王卑弥呼の住む隠れ里だったと思われます。

870 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 17:16:11.66
>>868
かわいそう〜に
1年の意味も理解できない太国。
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差
(たが)ひ、正月を反て二月と為す。
「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、・・・

書記はこの太陰暦で書かれている。←理解する能力が無いのか?



871 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 17:33:23.28
書紀は五重在位と書かれていない。。←理解する能力が無いのか?

所詮オマエの恣意的選択であり、書紀を喰い物にして記紀の転覆を狙う
悪事をたくらんでいるのがオマエの腹の中。><

神武は退院歴を太陽暦にしろと勅をしている。←服従する紀が無いのか?

872 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 17:38:17.13
かわいそう〜に ↓ 19×nの空年はこの地球上に無い。ww

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

873 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 17:39:37.82
ハハハッ! 泣いてやるよ。ww

>景行天皇 240年〜261年
コチラが検証↓すると、宿主空年はインチキと判明。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

874 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 18:40:53.29
>ハハハッ! 泣いてやるよ。ww

大いに泣け。
古記は、季節と月に間違いは無いと主張している。
であるならば、季節と月を基準に年数を減らせばよい。
そこでだ、60年分の記事を用意すれば、季節も月も60年分用意するしか方法は無い。
日本書紀は、日本書紀に書かれた記事しかその主張の範囲に無い。
だからその主張の範囲外の記事の責任は負わない。

つまり、季節や月を書き換えてはならないと古記に書かれていると読むべきだ。
季節や月を書き換える必要のある太国倍年に正義は存在しない。
理解できているか?
季節や月を書き換えても、書記の太陰暦を再現することが出来ない。
この太陰暦を再現できない”暦の後付説”は成立しない。
まさに、太国倍年がそれにあたる。



875 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 19:10:02.16
古記は、昔年の暦を「19年7潤」であると表記している。
19年は2倍にも3倍にも対応しない。7潤も同様である。
つまりこの数字を書き換えて、倍年を説明し、かつこの数字を再現してやっと”後付”の再現である。
太国はこの作業を放棄して太国倍年の存在を主張しているが、
この作業を放棄した時点で、太国倍年はゴミ箱行きである。
ゴミ箱をあさった太国倍年を支持するのは、ゴミまみれの太国しかいない。



876 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:09:42.30
貫頭衣は、遠くローマ帝国から伝わった衣装だ。
稲作を伝えたのも彼らだし、天文学の知識も彼らが伝えたのだろう。
アレキサンダー大王の東方遠征の影響は日本も及んでいたわけだ。
卑弥呼はイスラエル人だったのではないだろうか?

877 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:54:13.60
卑弥呼はエジプト人
そんなことも知らないのかよwww

878 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:58:46.34
卑弥呼は、公孫 淵の娘

879 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 21:01:07.30
もうすぐアセンションが始まる

880 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 21:38:08.50

■纏向遺跡 王宮の範囲示す溝か

NHKニュース 2月17日 (動画あり)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120217/t10013083661000.html

邪馬台国の候補地の1つとされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、女王・卑弥呼の宮殿という説もある大型建物跡の南側から、建物とほぼ平行に延びる溝の跡が見つかりました。
市の教育委員会は、王宮の範囲を示す可能性もあるとみて、詳しく調べることにしています。

奈良県桜井市の纒向遺跡は、邪馬台国の候補地の1つとされ、3年前に見つかった3世紀前半の大型建物の跡を女王・卑弥呼の宮殿とする説も出ています。
桜井市教育委員会が去年12月から発掘調査をした結果、建物跡から南に38メートル離れた地点で東西に延びる溝の跡が見つかりました。
溝は幅60センチ、長さが6メートル以上で、建物とほぼ平行に延びていることから計画的に作られた可能性があるということです。
この溝は王宮の南端に作られ、王宮の範囲を知る手がかりになる可能性も考えられるということで、市の教育委員会はさらに詳しく調べることにしています。

調査を指導する桜井市立纒向学研究センター設立準備顧問の寺沢薫さんは、
 「溝は建物がなくなった直後に埋まったとみられ、時期的には合うが、今後、延長した部分などを調査して、建物と関連があるか確認する必要がある」
と話しています。
今回の調査内容について、18日、現地で説明会が開かれます。

881 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 21:45:15.49
>>874 大いに泣いてやろうmmm・・・ww オマエのためにな。ww
神皇紀は、退院から太陽にするに間違いは無いと主張している。
であるならば、退院を太陽を基準に暦法を定めればよい。
古記よりも神武の暦法の勅のほうが優先だ。
そこでだ、60年分の空年を↓用意する必要は無い。

【景行在位年代年表】
景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

882 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 21:46:33.91
コチラが検証↑↓すると、宿主空年はインチキと判明。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

883 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 21:57:06.84
>暦の後付説”は成立しない。

暦の後付説”は成立する。

そうでないと、紀の編者らが原書として採用した全ての原書に季語たる
春夏秋冬がついていたことになる。
これら原書群を書いたさらに昔のそれら著作者らは、悉くが季語をつけて
おいたと言えるのか? 答えはノーである。ついてない書がかなりあった
はずだ。秀魔電もついてないところが多々あることがわかっている。

つまり文証として秀魔電には各文の冒頭に全部春夏秋冬はついていない。
ぬけている文が多いわけだな。ww
だから >暦の後付説”は成立しない とオマエがと言い張るなら、秀魔電
は季語がついてない各冒頭文が多いから、紀では神武以降の文でその殆どに
季語がついてるんだから、秀魔電は紀の原典ではないこととなる。

どうだ、わかったか〜?ww

884 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 22:01:58.72
>であるならば、退院を太陽を基準に暦法を定めればよい。

書記の日付は、その季節と月と朔で書かれている。
その太陰暦を太陽暦に変換しても、太国倍年の数字にはならない。
悔しいだろうが事実である。
太国が太国自身の暦法を定めればよい。のか?
誰も相手にしない暦が出来上がるだけである。

885 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 22:17:02.49
その退院歴を太陽暦に変換しても、太国倍年の数字は殆ど変わらない。
年代決めには誤差は極めて少ない。だから退院歴だ太陽暦などとこれに
拘るのは○ンマな野郎だと美濃もん太氏に言われ、嘲笑されるのがオチ。
悔しいだろうが空年が↓インチキなのは事実である。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

886 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 22:18:03.79
コチラが検証↑↓すると、宿主空年はインチキと判明だww。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

887 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 22:33:09.95
>秀魔電もついてないところが多々あることがわかっている。

太国も参考とすることのあるホツマには、月日の数字(干支)は少ない。
しかし、表記された年数と干支は日本書紀と同等である。
古記が主張する19年7潤の最終年仲哀9年と19年単位で存在するその中に
垂仁元年がある。
ホツマは垂仁元年を19年7潤の最終年であることを主張している。
つまり、19年7潤さえ守られていれば、季節を表記する必要は無い。
その絶対必要とはしない季節がなぜ数字(干支)と共に記述されるか?
季節と日付を順守しているとのアピールである。
季節と日付を順守しつつ”年数”を引き延ばす。その引き延ばしを隠すために
季節と日付(干支)を書き込む。 完全犯罪だな。
しかし、完全犯罪は成立していない、それがこの日付のユラギとなって現れる。
4分暦の日付がリントク暦のごとき日付のユラギが存在する。
しかし書記をリントク暦の後付と主張しても、正しいリントク暦とはならない。
つまり、このユラギのある日付は計算値では得られない。だから”後付”は否定される。
太国倍年もこの”計算値では得られない書記の太陰暦”を後付できなければ成立しない。
まあ、その前に太国倍年なるものを日付に直すことが先決ではある。
その先決である日付の特定をあきらめたんだろ?
あきらめた時点で、太国倍年は成立しない暦法であることが証明されているんだ。

888 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 22:40:48.82
>>878
公孫淵の娘なら殺されているべさ

889 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:13:07.04
>だから”後付”は否定される

書紀の原書群全てに季語がついてたとは到底言えない。
秀魔電もついてないということはこのことを意味してるわけであり、
なにも朝廷の書庫にない古文献でさえ季語がついてないものがかなりあ
ったと観てよい。
ところが書紀は神武以後の記述のその殆どに春夏秋冬の季語がついて
いるのが読めば分かる。ということは書紀のこれら季語が後付けだったと
いうことだ。だから秀魔電にも季語の欠落が多々あるわけだな。

つまり書紀のこれら季語は季語についてない原書群の文に書紀の編者らが
季語をふったのである。ふった事由は天皇に見せる国家文書のため格式が
うるさく、朝廷の形式を重んじたからである。

秀魔電に季語が無い各文が多々あるんだから、後つけでなく、もともと書紀
についてたというんなら、秀魔電は書紀の原典ではないこととなる。ww

890 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:16:47.19
オマエは早く、そのインチキ空年とやらを諦めるべきである。ww
あきらめた時点で、宿主空年は成立しない暦法であることが証明されているんだ。
それは以下 ↓ のとおり、空きはない。ww。

【景行在位年代年表】
景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>



891 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:18:06.75
オマエはこれ↑↑を見て、はやく空年をあきらめねばなるまい。ww

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

892 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 23:34:26.27
>書紀のこれら季語が後付けだったということだ。

だから〜最初に書記の暦が後付であることを証明すればそれで済む。
自分のすべきことをしないで主張ばかりしてもダメなんだよ。
古記が4分暦を主張しても、単一の4分暦で書かれていない日本書紀。
リントク暦を主張しても、そのリントク暦のみでは暦日を得られない日本書紀。
この齟齬のある書記の太陰暦を再生できなければ、後付の証明とはできない。

ついでに、神功・応神の治世を短くすると百済王家の世継ぎまでもが短くなる。
書記は、差し込み記事は、差し込みであることを断っている。
だから、百済王家の世継ぎは日本の記録を書き込んだものである。
ということは、太国は書記の記事までを書き換えたことになる。
記事の勝手な書き換えは認めるわけにいかない。
【景行在位年代年表】 を書記に書き加える行為も正しい行為とは言えない。
この場合、書記は60年の太陰暦がそのまま存在しなくてはならない。


893 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:49:30.51
在るものを無いという大ウソを言っても駄目なんだよ。オマエはしかも
畿内説九州説畿内兼九州説と、ご都合によって説の鞍替えをする。ww
都合の場ときは書紀を使い〜都合が悪いと否定し、五重在位
だとか精神病院行きご苦労のインチキ論を繰り返す。ww
空年60年とかの退院歴が↓そのまま存在しない。

【景行在位年代年表】
景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

894 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:51:02.01
オマエはこれ↑↓を見て、はやく空年がインチキだと覚悟せばならない。ww

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

895 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/18(土) 23:54:53.93
ついでにこれ ↓ はダメ押しだ。ww
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

896 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/18(土) 23:58:24.79
秋津遺跡 
さらに興味深いことは、方形区画施設2,3,6は同じ場所に築かれているが、3の後に2,その後に6が作り替えられ、
しかも作り替えられるたびに規模が小さくなっていったという。その時期は、出土した布留式1式と2式の土器から4
世紀前半と思われ、どうも20年から30年ごとに作り替えられと推定されている。

秋津遺跡は軽島の明宮、つまり応神の宮である。しかもこの時代にここに宮を置いたのは応神しかいない。
であるならば、応神は、この2回の作り変えを含む。3代分の時空を占めなければならない。

古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑

允恭4年のクガダチにより世継ぎには書き換えがある。だから、神功・応神・仁徳の治世を短くしても
正解ではない。

>ついでにこれ はダメ押しだ。ww

ダメ押しは、ダメ押しでしかない。打っちゃっておけば相手が自分から土俵を割る。


897 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 08:27:38.45
ジジイども、おまいら何年同じ事やってんだよ

精神病院行けよ、スレ汚しのキチガイ共が

898 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 10:05:05.37
邪馬台国って共和制だったの?



899 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 10:29:17.34
首長連合とか寡頭制とか

900 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 10:30:03.11
>成務天皇 262年〜265年← 下表↓からイカサマ。空年はホレッ、無い
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御

901 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 10:53:47.04
当時五重在位だということは、宿主は書記の記事までを書き換えたことになる。
記事の勝手な書き換えは認めるわけにいかない。
【景行在位年代年表】 を書記に並行させる行為も正しい行為とは言える。
この場合、書記に60年の退院歴空年がそのまま存在しなくても当然だ。

902 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 10:54:15.23
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー磯智明(反日・天皇制度廃止論者)の全プロデュース作品

@『監査法人 (2008)』反体制・反社会

A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会

C『気骨の判決 (2009)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

D『鉄の骨 (2010)』反体制・反社会

E『15歳の志願兵 (2010)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

F『心の糸 (2010)』反体制・反社会

903 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 12:33:34.16
金鑚神社(かなさなじんじゃ) 武蔵国二の宮(埼玉県児玉郡神川町)

社伝によると、景行天皇の四十一年、
日本武尊東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の伯母である倭姫命から
草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀。
当社は、奈良の大神神社、長野の諏訪大社同様、本殿を持たない珍しい神社なのだ。
御室ヶ嶽は三輪山の別称である御諸山、そして御諸別にちなんだ名前であることは間違いない。

諏訪から十国峠を超えて関東平野への出口という地政学的にも、
ヤマトタケルの東国征伐の最初の拠点にふさわしい場所にある神社だということがわかります。

904 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 14:45:45.16
景行41年春1月 日本武尊の記事
ホ39355      ヲホイソに ヤシロをたてゝ
ホ39356      カミまつリ こゝにとゝまる
ホ39357      ハナヒコは わがサキミタマ
ホ39358      しろしめし カワアヒのノに
ホ39359      ヲホミヤを たてゝまつらす
ホ39360      ヒカワカミ イクサウツハは
ホ39361      チチブヤマ

社伝すべてを否定しているわけではないが、
全ての年を認めてその60年を短くする手法として、季節や月を無視すると
古記の言う 「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差
(たが)ひ、正月を反て二月と為す。

古記は書記の太陰暦が使われていたと表記している。つまり、太陰暦を否定することは許されない。
ただし、古代朝廷の文書に倍暦の存在が書かれていれば、それに従うことはやぶさかではない。


905 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:46:48.70
http://twitter.com/sirakomadori

http://twitter.com/#!/komadorisirako

http://twitter.com/#!/sirako_2525

http://com.nicovideo.jp/community/co1403376

http://twitterer-wiki.com/index.php?%40sirakomadori

http://nanos.jp/sirakomadori/

906 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 15:32:21.51
>当時五重在位だということは、宿主は書記の記事までを書き換えたことになる。

仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)古事記274年壬戌、応神誕生
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年 古事記366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。 古事記399年丁卯
古事記 履中404年壬申
274年生まれの応神の後を、313年仁徳が即位する。
384年応神崩御後を仁徳が継ぎ、399年に仁徳の葬儀が行われる。
この数字がおかしいのは、允恭4年のクガダチの結果である。
だからこのクガダチの経緯と実態を把握せねば、「五重在位」の解明はできない。
古事記には神功摂政は存在しない。しかし、仲哀死亡(応神誕生)から仁徳崩御までの数字は同じである。
古事記 応神軽島の明宮は秋津遺跡である。秋津遺跡は布留1〜2の間に2回の建て替えがある。
明宮に存在できるのは応神のみである。世継ぎに書き換えがあることは、応神と明宮が1代で説明できない
ことと対応する。


907 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 16:08:08.80
273年日食(神功元年に注入)←非常に○ンマな所業ww

日蝕は数日間継続するわけもなく、たかが1〜2時間が限度である。
従ってこれも精神病院ご歓迎の噴飯節。

ムー誌の読みすぎ以上にその支離滅裂性が進行している。ww

908 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 16:15:48.15

ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

天文計算〜
メトンを出したところで、朔が数日間継続しないくらい分かるはずの
野郎が、日食も数日間継続しないことくらい〜天文計算で日食で90%以上
欠けてのみの短時間だけ暗黒になることも含んで分かるはずだぜ。

それを曲げない妄想野郎はなおもインチキ・ホツマ解釈をがんばっていて、
脳内がこれに完全に蹂躙、麻痺されているというわけだ。ww

神皇紀は神武が太陽暦を使う勅をしたと表記している。つまり、退院歴を先行することは神武が許されない。
ただし、古代朝廷の文書に空年の存在が書かれていることはなく、空年に従うことは棄却してよい。



909 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 16:30:35.84
>神皇紀は神武が太陽暦を使う勅をしたと表記している。

その「神皇紀」が、当時の朝廷の文書「日本書紀」「古記」に先行して正しいとするなら、
太国倍年は「神皇紀」から得られた数字であると主張すれば良いのでは?
つまり、
日本書紀は偽書であり「神皇紀」が日本の正史であると宣言することもできる。
宣言しなさいよ
「古記の記述する太陰暦で書かれた日本書記の記述は認められない」と。
「その太陰暦が使われているホツマ伝はさらに偽書である」と。
だから、「書記が主張する百済王家も無視できる」と。
「書記の記事は、信じる必要は無く我が主張する倍年のみが正しい」と。


910 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 16:39:30.39
あの「秀魔電」が、当時の朝廷の文書「日本書紀」「古事記」に先行して正しいとするなら、
宿主空年は「秀魔電」から得られた数字であると主張すれば良いのでは?
つまり、
日本書紀は偽書であり「秀魔電」が日本の正史であると宣言することもできる。
宣言しなさいよ

911 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 16:42:59.24
>>897
稀代のデ○○を把握して下さい。

---------------------------------------------------------------

なお日蝕が数日間も続くと言う野郎の言うことは信じられないですな。

912 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 16:47:29.75
オマエは5桁位の数字群の羅列だけに終始しその裏づけ
たるこの数字のどこからどこまでが空年なのか?〜の、
これを全然行っていない。つまり抽象的数字列だけ
であり、たとえば景行の何年から何年までが空年
だったという重点が怠ってたからこれの具体的説明が
出来ない。毎回コチラが要求してもこれの回答が
出来ないわけで、つまり全然検証などえらそうに言う
オマエ自身がしていなかったことだということだ。ww

重ねて言う。

景行の場合など〜たとえば景行11年から景行29年が
19年分の間隙たる空年があり、また景行41年から
景行59年までの19年分が空年であってこれを全国
各地の伝承、縁起、由緒、創始、説話、古文献で
徹底的に調べてみたところそこの年代の箇所が各々
19年づつどこにもそんな記録等の伝承、文書が存在
してなかったとなると、オマエの主張してる空年が
真実味を帯び。掲示板各人への説得力、信用性が
強力に出て来て、これはもしかしたら本当らしいと
皆に肯定の雰囲気が出て強い評価を得られるのだ。

それをオマエはえらそうな虚勢は千人力だが、全然
説明が出来ない。そして日蝕が数日間続くとか大王
の家来を大王にスリ変えるとかの極めてひどい
メチャクチャ論を増幅させる物笑いの書きこみに
終始してオマエの信用度を→ −∞化させている。pp

913 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 17:43:25.08
>毎回コチラが要求してもこれの回答が出来ないわけで、

太国倍年を日数で表記して1年の数字が得られないという事実の事か?
それとも景行紀あたりの私の編年の数字の事か?
編年の日数は書き込んだことがある。
それに対する太国の見解は、「1円玉で数えるようなもの」だろ?
日数を無視した太国倍年を認めさせるために、日数表記を批判したいだけだろ?
日数で考えなければ、1年の時空は表記できない。
その日数を批判する以上以前の書き込みを見ればよいのではないか?
対する太国倍年には日数という数字が存在しない1年を基準とする。
数字のない1年であれば、春夏秋冬をもって1年と数えねばならないが
太国倍年には春夏秋冬も存在できない。

>重ねて言う。

無視したいから書き込めか?



914 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 18:05:46.24
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?朔干支を中国と同期させて検証。
増しは1章こと19年7潤=6940日が基本で4章につき1日(調整)を減ずる。
潤月は古記に従い、仲哀元年閏11月から逆算する。

西暦  年号元旦朔  増し調整   暦日 中国朔に同期させる
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯(中国の朔干支で表記)
途中省略 この間の増し 16章5日
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日  己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日  乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日  辛亥 ☆景初暦と同じ
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日  癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 ★庚戌 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 ★戊午 ★は1ヶ月の狂い
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑=丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 ここより中国の暦と同等

書紀の太陰暦と、正しい編年を中国の暦と同期させて、初めて歴史と対比させられる。


915 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 18:14:52.31
卑弥呼と関係のない国の話しか?

916 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 18:22:26.78
240年 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯。
241年 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰。
242年 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔。
243年 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子。
247年 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉。
248年 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
249年 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉。
250年 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國。
251年 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向。
252年 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
253年 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午。
255年 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子。
256年 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
256年 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌。
258年 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子。
258年 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未。
258年 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔。
258年 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉。
259年 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰。
260年 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
260年 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月。
261年 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
261年 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯。

この数字は、改元(空白年のさし込み)の記録が無いのであくまでも推定であり
このような暦が使われていたであろうとするための書き込みである。
季節と月は書き換える必要は無い。


917 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 19:01:38.08
推定はオマエのほうだぜ。
かわいそう〜に ↓ 19×nの空年はこの地球上に無い。ww

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)近江 竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀
                               <続く>

918 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 19:03:58.37
勝手に素抜きせんでいいぜ。ww
コチラが検証↓すると、宿主空年はインチキと判明。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御

919 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 19:40:41.03
>コチラが検証↓すると、宿主空年はインチキと判明。

だから、太国の使用する資料は日本書紀ではないんだろ?
コチラは日本書紀の編年を古記の記述に従うだけであるから
太国の使用する文献の責任までは負わない。
太国は、わけのわからぬ文献を使用してわけのわからぬ暦を想像し
わけのわからぬ編年を正しいとしたいんだろ?
太国倍年の神武いかの天皇は、正しい太陰暦も使用せず長く続いたと。
さらに、わけのわからぬ太国倍年に整合する文献は太国が創作してあわせる。
考古学の主張は無視することが出来る。
そういう主張なんだからそれを使って歴史を語ることが出来ない。
自分の編年を使って歴史を語る私へのあてつけとしてのみ、太国倍年は存在すると。
もう基地外の部類だな。


920 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 20:14:43.85
だから、宿主の使用する資料は日本書紀ではないだろう?
オマエは日本書紀の編年を秀魔電の記述に従うだけであるから
宿主の使用する文献の責任まではオマエが取る。
宿主は、わけのわからぬ文献を使用してわけのわからぬ暦を想像し
わけのわからぬ編年を正しいとしたいんだろ?
宿主空年の神武いかの天皇は、正しい?退院歴を使用したとか長く続いたと。
さらに、わけのわからぬ宿主空年に整合する文献は宿主が創作して
景行にあわせる。ブハッハハ・・・
考古学の主張は参考とすることが出来るが、アテにはならない。
そういう主張なんだからそれを使って歴史を語っても期待薄。
自分の編年を使って歴史を語る私へのあてつけとしてのみ、宿主空年は存在すると。
もうオマエが基地外の部類か?→五重在位ppppp

921 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 21:23:54.39
>オマエは日本書紀の編年を秀魔電の記述に従うだけであるから

違うだろ
朝廷文書の古記に従うのである。
ホツマは古記と同じ太陰暦を使用しているから引用するのである。
否定したければ、日本書紀が古記の暦を使用していることを否定できる文書
「倍年を使用していた」と書かれた朝廷の正式文書を出せばよいだけである。
出来るんだろ?隠していないでさっさと出しなさいよ。


922 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/19(日) 21:45:03.90
日本書紀は 朝廷の製作した正しい古代日本史である。
その日本史は、神功49年に領土を分与してそのお礼として七支刀がある。
太国の主張するこの年代はなんなんだ?七支刀を領土分与の否定される369年あたりに設定して
百済王朝を認めようとしているが、百済本紀は日本の歴史書でないから369年でつないでも
半島占拠自身が否定される年代である。これだけで不可能な年代が認識されるのに、神功・応神を
“倍年”とするから、日本書紀そのものの記述まで否定することになる。
七支刀=369年が誤りであることは半島占拠が否定されることで明らかである。
それに輪をかけて書記の記述まで否定する数字の書き換えまでをも実行する。

どっちから見ても太国倍年は成立していないだろ。


923 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 22:35:26.89
>>916 うぬの負けよ〜 コチラは多大に勝点を得る
宿主空年は はやグロッキーの必至 カウント・ダウン状態ww

<勝 太国 VS 負 唐松山 景行在位年代年表>

> 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯。
> 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰。
> 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔。
> 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子。
勝 景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
勝 景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
勝 景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
勝 景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同じく発現
> 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉。
> 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
勝 景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
> 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉。
> 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國。
> 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向。
> 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
勝 景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
勝 景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
勝 景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
勝 景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
> 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午。
勝 景行26年 佐賀 王子権現 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
> 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子。
> 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
勝 景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀


924 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 22:37:16.25
終止符スレ・・・ sss - 朝鮮 ※大御所(太国&唐松)
ドン来いスレ・・・伊作 - ムゲ尿 ※くぐつ師(ジョーカー)
それでも九州・・・久留米

エースとサブエースが頑張ってくれないとスレが活性しないな〜


925 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 22:40:20.37
<続 勝 太国 VS 負 唐松山 景行在位年代年表>

勝 景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
勝 景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
勝 景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
> 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌。
勝 景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
勝 景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
勝 景行43年 日本武尊 死
勝 景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
勝 景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
> 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子。
> 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未。
> 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔。
> 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉。
> 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰。
> 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
> 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月。
> 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
勝 景行59年 熊野年代記 熊野行幸
> 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯。

926 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 22:48:32.50
違うだろ
朝廷文書が古記とは言えない。
じゃぁ聞くが、古記は各年代文の冒頭に春夏秋冬の字がついてるのか?
オマエは全部最初からその季語が付いてる(前つけ)だと言ってるそうだ。
そうでなければ、オマエが前つけという朝廷文書に程遠い。

秀魔電は古記と同じ退院歴を使用していても、年代の誤差は太陽暦でも
大差ない。つまり退院歴は年代決めにはあまり関係がない。
オマエをせせら笑うのは美濃もん太氏だ。ww
犯罪現場での強盗の1円玉数えは○ンマな所業。ww・・・www

否定したければ、日本書紀が古記の暦を使用していることを肯定できる文書
「空年を使用していた」と書かれた朝廷の正式文書を出せばよいだけである。
出来るんだろ?隠していないでさっさと出しなさいよ。

927 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/19(日) 22:56:23.52
日本書紀は 朝廷の製作した正しい古代日本史である。
      ↑
書紀は五重在位を否定している。つまり遠まわしに五重在位をほざく
オマエは自語相違の支離滅裂さを増幅させておる。ww

その日本史は、神功49年に領土を分与してるか?そのお礼として七支刀があるという。

宿主の主張するこの年代はなんなんだ?七支刀を領土分与ののどうのこうの
半島文献を認めようとしているが、半島文書は日本の歴史書でないから120年大揺れのでつないでも
半島文献自身で不確定される年代となる。これだけで不可能な年代が認識されるのに、神功・応神を
“空年”とするから、日本書紀そのものの記述まで否定することになる。
七支刀=369年?がどうのこうのとは半島文献が大揺れされることで年代不明である。
それに三輪を避けて金木の記述まで否定する大中臣への無礼までをも実行する。

どっちから見ても宿主空年は成立していない。


928 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/20(月) 01:03:32.06
>七支刀=369年?がどうのこうのとは半島文献が大揺れされることで年代不明である。

だからと言って書記の記事を書き換えてよいというものではない。
書記の記事の編纂を太国がして、それを正しいと主張しているだけだ。
そうだろ?
323年 神功49年 半島占拠・領土分与とできる文献は存在する、それが
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■

[218] 婆娑尼師今記 32년, AD157년 Name:radio  2010/01/05(火) 21:40
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html
その直訳。
*新羅本紀ジマイサグム元年, AD112年. *AD159年- AD112年= 47年偏差.
*三国史記 蓋婁王(ゲルワング)の元年記事は 仇知王(旧地王)の元年記事だ.
新羅本紀と百済本紀は47程度の狂いがあるという書き込みである。
七支刀 369年-326年=43年 この程度の狂いがあるということだ。だから、
七支刀=369年から240年≒崇神を考古学は捨て、七支刀=326年から崇神世≒2世紀末と50年遡上する。
だからいくら待っても太国の主張する数字に考古学が近づくことは無い。
なぜならば、そこには文献が存在するからである。そして書記を太陰暦で表記できる。
つまり古記の主張する太陰暦の使用は正しいと認識できる。

書記の主張を古記の主張する太陰暦で読め、かつ文献と考古学が合致する。
だから動く要素が無い。
太国が書き込む太国の製作文献ではできない技だろ?考古学と合致しないからな。


929 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/20(月) 10:46:19.13
オマエの認識が正しくないから、以下のように空年が19×n年分存在しない。

<勝 太国vs負 宿主 景行在位年表> 空年はグロッキーww

> 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯
> 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰
> 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔
> 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子
勝 景行5年 藤白神社(和歌山県)創建
勝 景行6年 織田神社(福井県)創建
勝 景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
勝 景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山発現
> 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉
> 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
勝 景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇と武内宿禰誕生
> 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉
> 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國
> 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向
> 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
勝 景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
勝 景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
勝 景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
勝 景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
> 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午
勝 景行26年 佐賀 王子権現 高寺縁起 景行 軍議を開く
> 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子
> 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
勝 景行29年 河堀稲生神社(大阪府)同年 祭祀            <続く>

930 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/20(月) 10:48:34.27
>>929
<続 勝 太国vs負 宿主 景行在位年表> 空年はカウント・ダウンww

勝 景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
勝 景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
勝 景行39年 歴史徴 熊野新宮を建つ
> 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌
勝 景行41年 大国魂神社(東京 府中)創立
勝 景行42年 麻賀多神社(千葉県)創建
勝 景行43年 日本武尊 死
勝 景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)建つ
勝 景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
> 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子
> 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未
> 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔
> 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉
> 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰
> 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
> 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月
> 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
勝 景行59年 熊野年代記 熊野行幸
> 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯

931 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/20(月) 12:19:24.41
>>930

よっ。カチカチ山の狸、早く下りないとその泥船は沈むぞ。


932 :日本@名無史さん:2012/02/20(月) 20:54:41.33
age

933 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 14:39:49.67
>>931
1円玉とかは補助貨幣である。

大金(この場合は年数)の取引きには、通例硬貨数え
は不要である。個別(小売り)に小規模でりゃるとき
は1円玉等の数えが必要になる。実際JR線に乗るのに
1円でも不足してれば負けてはくれない乗せてはくれ
ないからな。
たとえばコチラも個々の場合は日数を論ずるのは
やっておりこれは当然である。崇神6年の鏡作神社の
社伝で9月3日を書きこんでおり、小売り的の場合は
確かに日数は補助貨幣1円玉使用はやりべきであろう
も、大取引の年代全部を論じる等のときに1円玉が
どうのこうのという野郎は、まぁ〜以下の手下のように
脳味噌に異常がある退院歴があるらしい言動だという
こととなる。ww
つまり年代取引き(年数の決め)に1円玉(日数)数え
は〇ンマな作業だ。ww
たとえば神武と大陸との交通での年代が書かれて
いる古文書が出れば、もう日数など関係ない。ww
それでもう神武の年代は確定だ。その時に日数がどうの
こうのなど言い出す野郎は、銀行強盗で万札しか関心
のないはずの強盗が、その仲間に銀行犯罪現場で、
おい、1円玉の数えが出来ないのか〜俺は出来ると自慢
して現場で玉数えをしてるようなマ〇ケな強盗下っ端
同然でありpp.,,すーぐケーサツに捕まってしまう
マ〇ケな男だということになる。

宿主はこれ同然のことを自慢しており、万札(年代表)
数えには1円玉(日数)数えは省いて当然である。こう
いう〇ンマなマネが否々マネーが、宿主という脳内が
おかしい?らしい野郎の書きこみなのであろう。bbb

934 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 18:52:48.55
>1円玉とかは補助貨幣である。

1日は1年の補助か?
何日あったら太国倍年の1年となるのだ?
書記は19年7潤6940日を基本とする暦である。
そして季節や月に違約は無いと古記が主張している。
書記も古記も朝廷の編纂した文献である。

タヌキ殿が季節は後付であると主張しても、タヌキ殿が書き込む「そんなことをしたら打ち首だ」ということになる。
だから〜タヌキ殿は「倍年が使われていた」と書かれた文書を朝廷の文書の中から探し出して掲載するだけでいいだぜ。


935 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 18:54:35.68
275年 神功元年 273年日食 如是恠謂阿豆那此之罪也。←差し込み記事
313年 神功卅九年是年也。大歳己未。 仁徳元年。
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。兵の引き上げ。
317年  奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月,
323年 神功49年 半島占拠 領土分与。
仁徳天皇十二年(甲申三二四)八月庚子朔己酉。饗高麗客於朝。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年
343年 仁徳31年 立大兄去來穂別尊爲皇太子
仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。新羅364 倭兵が大挙して侵入
仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。372年 東晋の勅使が百済を訪れる。
371年 応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。
380年 応神天皇三七年二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。
384年 応神天皇四一年二月。阿知使主等自呉至筑紫。

履中天皇六年(乙巳四〇五)二月癸丑朔。高鶴郎姫納於後宮、並爲嬪。於是二嬪恒歎之曰。悲哉。吾兄王何處去耶。
404年帯方界での敗戦による行方不明。
313年 高句麗と倭は東晋に朝貢する。百済は高句麗国に含まれる。
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
新羅の医者に対する態度は、新羅が高句麗に含まれることをあらわす。仁徳53年の態度ではない。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月。天皇異之卜其所由。卜者曰。有内亂。
倭王のつなぎ目である。
雄略天皇二三年(己未四七九)四月。百濟文斤王薨。天皇以昆攴王五子中。第二末多王幼年聰明。
嶋王とともに時空を動かす必要は無い。しかし、古事記は雄略の死を461年己巳とする。
 (462)済死し、世子興遣使貢献す。


936 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 18:56:42.19
太Kさんて荒しさんぽいな

937 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 19:02:03.71
>1円玉とかは補助貨幣である。

だからその国でしか使えない。
古代マヤの通貨をチラつかせてもだれも見向きもしない。

そういいたいんだろ?


938 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 19:08:08.25
卑弥呼は、金髪、眼はブルー

939 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 19:18:19.81
>273年日食 如是恠謂阿豆那此之罪也。 ←差し込めぬ記事

阿豆那此は天文現象が数時間だという意味ではな〜い。

940 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 19:20:43.15
卑弥呼は、カンカシヒメ


941 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 19:29:55.18
>阿豆那此は天文現象が数時間だという意味ではな〜い。

だからその事象を太国倍年で主張すれば良い。
タヌキ殿が歴史を語れないのは、変換レートに問題があるだろ。
日本書紀を使い物にならない通貨だとの主張までは皆が認めているが
書紀の季節や月を書き換えてよいという主張こそがまやかしレートであることも皆が知っている。

そのレートで書紀の3年を1年とする根拠もない。
他国の銭をちらつかせてもこの国では使えない。


942 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 19:39:37.61
3年を1年とする根拠はある。↓空年を書紀の年代とする根拠もない。
> 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯
> 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰
> 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔
> 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子
勝 景行5年 藤白神社(和歌山県)創建
勝 景行6年 織田神社(福井県)創建
勝 景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
勝 景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山発現
> 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉
> 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
勝 景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇と武内宿禰誕生
> 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉
> 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國
> 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向
> 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
勝 景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
勝 景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
勝 景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
勝 景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
> 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午
勝 景行26年 佐賀 王子権現 高寺縁起 景行 軍議を開く
> 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子
> 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
勝 景行29年 河堀稲生神社(大阪府)同年 祭祀            <続く>

943 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 19:41:15.01
勝 景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
勝 景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
勝 景行39年 歴史徴 熊野新宮を建つ
> 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌
勝 景行41年 大国魂神社(東京 府中)創立
勝 景行42年 麻賀多神社(千葉県)創建
勝 景行43年 日本武尊 死
勝 景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)建つ
勝 景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
> 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子
> 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未
> 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔
> 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉
> 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰
> 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
> 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月
> 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
勝 景行59年 熊野年代記 熊野行幸
> 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯

944 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 19:41:53.60
>3年を1年とする根拠はある。↓

であるならば、1年に編集して見せてくれ。


945 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 19:43:25.69
>だからその事象を太国倍年で主張すれば良い。

コチラはオマエの言うそこの日蝕という事象を否定してるから、その主張は
するわけがない。ww

946 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 19:54:52.39
空年があるならば、景行の表から具体的に示してくれ。

どこにあるんだい?→>>942>>943

どこだどこだ??



947 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 19:55:33.31
どうせ知らんだろうから教えるが、
景行の治世日数は21912日である。
365.25日で数えると3日ほど多い。


948 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 20:06:46.96
>景行の治世日数は21912日である。

教えるだとぅ〜?

日蝕が数日間も続くという野郎の数字など、アテになるものかね?ww

オマエか〜?、曲学の徒さんの掲示板でコチラのコテハンを許諾無しに
使用したのは〜?

あそこは本人が書く欄だろうが。

あんなことをやるところを観ると、オマエ相当追い込まれているな。ww

景行の表はオマエの空年のインチキだったのが歴然だからな。
かなり噛み付くだろうと思って観ていたが、やはりそれに近い精神状態
にオマエがなってるということだな。ww

あれを見て、空年なんぞないんだから引っ込めたほうがいいぜ。

949 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 20:28:27.64
秋分春分で2年だって
http://www.youtube.com/watch?v=hhMbtGmLpMY&feature=related

950 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 20:39:00.35
春秋暦は書かれていないのが日本書紀である。
倍数を増やせば正しくなると勘違いしたのが、太国倍年である。

>オマエか〜?、曲学の徒さんの掲示板でコチラのコテハンを許諾無しに使用したのは〜?

太国の主張を誰かが使ったときは、「光栄であります」と感謝すべきだろ?
あれは、「名無し」氏がたてたスレである。私ではない。

>3年を1年とする根拠はある。↓

であるならば、1年に編集して見せてくれ。


951 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 21:01:26.46
[6776] RE:系譜なぞ信じられないと言う人、教えてください。 Name:太国  NEW! 2012/02/21(火) 14:42
>>6774
あんたは自己の作ったスレのみでやってくれ。
コチラのへ書きこみはする必要はない。

タヌキ殿がこんな書き込みをするから、「名無し」氏が立ててくれたんだろ。
感謝こそすれ誹謗中書推しても前進は無し。



952 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 21:03:02.95
訂正
[6776] RE:系譜なぞ信じられないと言う人、教えてください。 Name:太国  NEW! 2012/02/21(火) 14:42
>>6774
あんたは自己の作ったスレのみでやってくれ。
コチラのへ書きこみはする必要はない。

タヌキ殿がこんな書き込みをするから、「名無し」氏が立ててくれたんだろ。
感謝こそすれ誹謗中傷しても前進は無し。

953 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:09:57.61
オマエが自己のコテハンを使われて黙っているのか?

じゃぁオマエはオマエのコテハン使用を許諾してるわけだな。

オマエは許諾しないとあそこに書き込まないでいるのは、オマエが撹乱を
コチラにやらかすためやtt

954 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:12:38.81
書きこみ中断ミス 失礼

〜〜コチラにやらかすためやったのだということよ。

オマエ、米田氏や大彦氏に無断使用の無礼をなすりつけたな。

オマエは悪い野郎だな。




955 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:17:46.98
わかった。オマエの疑惑は晴れた。わびを入れる。スマン!

が、しかし何でオマエは許諾しないとか宣言しなかったり、あの直後に
単発の書きこみをしたのか? だからさらに疑念を増したわけだ。

あんな単発を書くより「許諾しない」ことを警告すればいいだろう?
だからこちらも疑いを濃くせざるを得なかったということダ。

956 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 22:30:02.80
>「許諾しない」ことを警告すればいいだろう?

スレたては自己責任である。
タヌキ殿も自己スレをたててそこで倍年をアピールすればよいだろう。
邪魔だから出て行け。はない。


957 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:38:50.53
オマエに出て行けとは言っていない。

これはオマエとは直接関係ないことだ。余計なことに口出しするな。

出て行けと〜〜
そのような言い草は米田がコチラに似た意味で言ってきたことだ。
ならばこちらも出て行けとコチラから奴が言われても当然だろうが。


958 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:52:04.07
[勝 太国vs負 宿主 景行在位年表] どこ ↓ にも無い空年はご臨終ppp

> 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯
> 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰
> 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔
> 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子
勝 景行5年 藤白神社(和歌山県)創建
勝 景行6年 織田神社(福井県)創建
勝 景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
勝 景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山発現
> 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉
> 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
勝 景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇と武内宿禰誕生
> 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉
> 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國
> 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向
> 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
勝 景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
勝 景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
勝 景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
勝 景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
> 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午
勝 景行26年 佐賀 王子権現 高寺縁起 景行 軍議を開く
> 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子
> 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
勝 景行29年 河堀稲生神社(大阪府)同年 祭祀

959 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/21(火) 22:53:32.31
米田氏に「でてゆけ〜」と言われるような書き込みをしたからだろ?
ここでも同じような書き込みを何回続けるつもりか知らないが
太国倍年のプラスにはなっていないぞ。
他人に説明を強要する以前にすることがあるだろ?
1年の長さも表記できないような暦を使って、表記しなければコチラの勝ちとでも考えているんか?
表記しなければ、表記できない程度の言いぐさでしかない。
その程度のもので否定されても、否定の根本がくさっているんだからだれも読まなくなる。
だから、さらに声を張り上げる。張り上げたところで成立していないんだから「うるさいから出て行け」
といわれたんだろ。
少しは反省したらどうだ?


960 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:54:06.54
[続 勝 太国vs負 宿主 景行在位年表] どこ ↓ にも無い空年はご臨終

勝 景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
勝 景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
勝 景行39年 歴史徴 熊野新宮を建つ
> 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌
勝 景行41年 大国魂神社(東京 府中)創立
勝 景行42年 麻賀多神社(千葉県)創建
勝 景行43年 日本武尊 死
勝 景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)建つ
勝 景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
> 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子
> 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未
> 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔
> 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉
> 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰
> 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
> 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月
> 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
勝 景行59年 熊野年代記 熊野行幸
> 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯

961 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:56:46.91
>少しは反省したらどうだ? 何を寝言を〜↓空年なんかどこにもないww

[勝 太国vs負 宿主 景行在位年表] どこ ↓ にも無い空年はご臨終ppp

> 景行天皇元年(辛未七一) 秋七月己巳朔卯己卯
> 景行天皇二年(壬申七二) 春三月丙寅朔戊辰
> 景行天皇三年(癸酉七三) 二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔
> 景行天皇四年(庚戌七四) 春二月甲寅朔甲子
勝 景行5年 藤白神社(和歌山県)創建
勝 景行6年 織田神社(福井県)創建
勝 景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
勝 景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山発現
> 景行天皇十二年(壬午八二)八月乙未朔己酉
> 景行天皇十三年(癸未八三)夏五月
勝 景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇と武内宿禰誕生
> 景行天皇十七年(丁亥八七)春三月戊戌朔己酉
> 景行天皇十八年(戊子八八)春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國
> 景行天皇十九年(己丑八九)秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向
> 景行天皇二〇年(庚寅九〇)春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
勝 景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
勝 景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
勝 景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
勝 景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
> 景行天皇二五年(乙未九五)秋七月庚辰朔壬午
勝 景行26年 佐賀 王子権現 高寺縁起 景行 軍議を開く
> 景行天皇二七年(丁酉九七)春二月辛丑朔壬子
> 景行天皇二八年(戊戌九八)春二月乙丑朔。日本武尊
勝 景行29年 河堀稲生神社(大阪府)同年 祭祀

962 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 22:57:21.30
[続 勝 太国vs負 宿主 景行在位年表] どこ ↓ にも無い空年はご臨終

勝 景行31年 伊豆山縁起 杉の大木 香を放つ
勝 景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
勝 景行39年 歴史徴 熊野新宮を建つ
> 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)秋七月癸未朔戊戌
勝 景行41年 大国魂神社(東京 府中)創立
勝 景行42年 麻賀多神社(千葉県)創建
勝 景行43年 日本武尊 死
勝 景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)建つ
勝 景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る
> 景行天皇五一年(辛酉一二一)春正月壬午朔戊子
> 景行天皇五二年(壬戌一二二)夏五月甲辰朔丁未
> 景行天皇五三年(癸亥一二三)秋八月 丁卯朔
> 景行天皇五四年(甲子一二四)秋九月辛卯朔己酉
> 景行天皇五五年(乙丑一二五)春二月戊子朔壬辰
> 景行天皇五六年(丙寅一二六)秋八月
> 景行天皇五七年(丁卯一二七)秋九月
> 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛丑朔辛亥
勝 景行59年 熊野年代記 熊野行幸
> 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月乙酉朔辛卯

963 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 22:59:13.19


キャキャ(∇≦d) (b≧∇) キャキャ


964 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:00:03.15


キャキャ(∇≦d) (b≧∇) キャキャ


965 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/21(火) 23:01:33.95
「うるさいから出て行け」と言われたんではないねぇ。

オマエと同様やつもコチラに歯が立たないから、居座られると困るので
出て行かせたかっただけのことよ。

空年なんぞ上を見れば無いからなぁ〜、引込めたほうが恥をかく度合いが
少なくていいぜ。ww

zzzzzzzz・・・・・・・・


966 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:13:44.60
太国っていう人、壊れてしまったみたいですね。
同じことを何度も書くのは、コピペ荒らしと同じです。
そんなこともわからなくなってしまったとすれば、
それはかなり重篤な痴呆症ということです。
お大事に。

967 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:29:52.25
リオのカーニバル衣装具
http://minamuranomad.up.seesaa.net/100420/A5C0A5F3A5B5A1BC.jpg
http://minamuranomad.up.seesaa.net/100420/B0E1C1F5.jpg
http://minamuranomad.up.seesaa.net/100420/B0E1C1F5CEA2C2A6.jpg

はめこみ式だったんだ・・・
卑弥呼の死因がこれで判明しました。


968 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 06:43:18.30
卑弥呼は"あたし"だよ

969 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 06:48:11.96
言葉を操る
すなわち"鬼道"はあたしの真骨頂。
今日もそれを楽しんでいる。
公共の電波を使ってね。(乗っ取った)

970 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/22(水) 10:38:46.53
>>966
表が分断されてからだよ。
本来コチラは荒らしなどしたくない。
貴方は視点がズレているな。

宿主は同じ表の書きこみを荒らしと言われないように間隔開けで毎回1日1〜3回
の同じ書きこみを巧妙に繰り替えしてるんだよ。同じことを毎回繰り返すのは、
時間間隔はいささか離してはいるが、これこそ小ズルい荒らしだと思うぜ。
それでこれを牽制して奴の思惑をさせないために、こちらも若干同一が多く
なるものの書きこむのをやむを得ず書きこむわけだ。短時間短日時だけ見て
考えればコチラが荒らしに見えようが、これもやむを得ぬ場合があるということだ。

あいつこそしてないように見せかけてはいるが、奴こそ、その正体は荒らしその
ものだぜ。

スピード違反の車が走行すれば、白バイはそれ以上のスピードで走行しなけれ
ば、違反車両は捕まらないぜ。その時白バイのスピードがスピード違反車より
出してはいても、白バイがスピード違反にも道路を荒らす暴走族にならんぜ。
そうしないと遅い白バイではそのスピード違反車は捕まりはしない。

また人を殺したならば殺人罪だが、死刑判決の罪人を上からの下命により死刑台
にて刑務官がこの罪人を殺して処刑しても、これは別に殺人罪にはならん
だろうが。

もっとよ〜くスレを見回して大局を見ろ。

971 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 10:55:27.22
弓月君と卑弥呼は、鬼道つながり

972 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 17:25:55.23
弓月君が弁辰ののせいのたかい王様の御子孫なら卑弥呼たんの血縁者にきまりでしょうねえ

973 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/22(水) 22:13:47.26
>>962

嵐の狸大明神殿 その景行紀が180余日の暦で書かれていることを証明してくれ。
それとも、太国倍年の1年が180余日なのか?


974 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/22(水) 22:43:44.96
宿主よ。
オマエの秀魔電の景行の代の妊娠記述で説明済みだ。
おやおやよ〜くオマエは忘れるなぁ〜。ww

そうだろう、都合の悪いことは無視する脳内だからな。
今度は1銭ずつ数えてみろ。pp

975 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/22(水) 22:44:01.21
宿主よ。
オマエの秀魔電の景行の代の妊娠記述で説明済みだ。
おやおやよ〜くオマエは忘れるなぁ〜。ww

そうだろう、都合の悪いことは無視する脳内だからな。
今度は1銭ずつ数えてみろ。pp

976 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/22(水) 22:51:24.55
すまぬ、忘れたからもう1度書き込んでくれ。


977 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/22(水) 23:08:02.71
秀魔電はオマエのほうが詳しいだろう。

オマエが、景行の妊娠年月を調べろ。何度同じ質問をしてくるな。

978 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/22(水) 23:11:28.54
>977 訂正
× 景行の妊娠年月
○ 景行世の条の妊娠年月

979 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/22(水) 23:25:46.33
景行世の条の妊娠年月 何ぞ聞いていない。
タヌキ殿が主張している「180日余」の数字は何処から出てきて、何の数字であるか?
なのだよ。


980 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 11:04:51.86
オマエのミエミエのしらばっくれるのもそこまでだ。
何度も同じ質問そするんじゃねぇ。
何度もオマエのその忘れた脳内と相談を続けろ。

オマエは聞いてるから、オマエの脳内と相談しろ。
妊娠は10月10日だ。それをオマエの秀魔電から詮索すれば、〇薄らしいオマエも
思い出すだろう。ppp

オマエがそれで計算すればいい。それとも日食の継続時間の如き〇ンマな計算値
をまたやらかすのか?

それよりも考古の威を借りる〜
キツネ役が主張している空年の位置は何処に出てきて、何処に在所するのであるか?
なのだよ。


981 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/23(木) 12:41:41.89
とうとう狸と狐の化かし合いになったのか(笑)

982 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 14:30:36.64
>>981氏どの

やつはしらばっくれてるんですよ。
よ〜く奴はこの手を使いとぼける野郎なんですな。

なお宿主空年がインチキなのは、>>961>>962を眺めれば一目瞭然です。w

983 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/23(木) 19:03:24.36
>宿主空年がインチキなのは、眺めれば一目瞭然です。w

60年の時空が振られているから、60年すべての年が使われていると主張したいのであろうが
60半年とは記述されていない。
景行紀には、1月から12月まですべての月が登場する(閏月は登場しないが)
そして1月とは、29日か30日である。

だから、記事が月半分と主張しても1ケ月は29日か30日である。



984 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 19:44:22.63
>60半年とは記述されていない。

秀魔電の景行年代の例の妊娠記事が当時の1年が現今の半年だったことを
裏づけている。以前オマエは苦しい言い訳をしていたな。ブハハハ・・・

985 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 21:22:40.69
次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!65
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329999700/

986 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/23(木) 22:12:52.95
>例の妊娠記事が
景行元年生まれの日本武尊の誕生だろ?
太国倍年では、否定されている出来事ではないのか?

731辛未  293癸丑  景行即位
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
16才の日本武尊、現実は8才なんだろ?

ただしいとするのであれば、景行元年生まれに何故しないんだ?
景行27年に16才が得られないからだろ?
だから元年生まれを否定する。=ホツマを否定する。
だからホツマの日本武尊誕生を否定している以上この記事は使えないんじゃないのか?



987 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/23(木) 22:22:27.36
ホ38013      フホヤヨヒ キビツヒコがメ 景行2年
ホ38014      たつキサキ ハリマのイナヒ
ホ38015      オイラツメ ウチメのときに
ホ38016      コゾウヅキ はらみてうまず 垂仁90年卯月
ホ38017      フソヒツキ へてシハスモチ 21ケ月後の景行元年12月。
ホ38018      ウスはたに モチハナなして
ホ38019      フタゴうむ ヱのナモチヒト
ホ38020      オウスミコ トのナハナヒコ
ホ38021      ヲウスミコ ともにいさみて
ホ38022      ヒトナリは ミのタケヒトセ
ホ38023      ヱはよわく トはフソチカラ


988 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 22:23:12.44
なにを寝言を言い出すんだ?

何が何だか分からんぞ。
オマエ、秀魔のどこを読んでるんだ?
意味不明で支離滅裂だぞ??

989 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/23(木) 22:37:56.54
垂仁90年(同99年)卯月(4月)流産
5月・6月・7月・8月・9月・閏9月・10月・11月・12月
1月・2月・3月・4月・5月・6月・7月・8月・9月・10月・11月・12月
流産から21ケ月後の景行元年12月にオオウス兄弟が生まれる。

タヌキ大明神の主張は垂仁=3倍だろ?



990 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 22:38:13.84
天火明命で

991 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 22:45:09.62
相変わらず以前同様、苦しい言い訳だな。pp

992 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 23:00:02.94
そうだろ。
勝手な解釈は入れて素直に読むのを放棄すると、そこのオオウス兄弟のは
メチャクチャ年に来る。



993 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/23(木) 23:03:16.61
そうだろ。
勝手な解釈は入れて素直に読むのを放棄すると、そこのオオウス兄弟のは
メチャクチャ月に来る。

zzzzzzzz・・・・・

994 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 23:09:45.38
塩土老翁=張政

995 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/24(金) 00:14:40.34
ホ37191 コソホキサラギ       垂仁90年
ホ37192 ミコトのり カグをもとめに
ホ37193 タジマモリ トコヨにゆけよ
ホ37194 わがをもふ クニトコタチの
ホ37195 ミヨのハナ コソコホサシヱ 99年庚午
ホ37196 アフミハヒ キミまかるトシ 秋7月8日
ホ37197 モモミソナ ミコのモハいり 137才
ホ37198 ヨソヤヨル ハニタテモノし 埴輪=穴あき壺(庄内式)
ホ37199 シハスソカ スガラフシミに 12月10日 茅原
ホ37200 ミヲクリの タビもかゝやく
ホ37201 カミのミユキぞ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる 明年 春弥生
ホ37203 タシマモリ トキシクカグツ 時至9ケ月24日後 
ホ37204 フソヨカゴ

垂仁90年の翌年は、景行元年である。
ホ37210 トコヨとは カミのかくれの をよびなき フリをなじむの トトセぶり
中国では皇帝が死んでも暦変更には及ばない。垂仁死亡のため10年の月日が流れる。


996 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 07:19:53.97
次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!65
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329999700/


997 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 07:24:51.03
あと3

998 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/24(金) 10:54:40.91
>中国では皇帝が死んでも暦変更には及ばない

どこにそんな根拠があるのか?
オマエの脳内が根拠か〜?ww

皇帝の生死が変更ないと仮定しても、そうでないときには変更があるだろうが。
元嘉暦と儀鳳暦なんぞその典型だろう。大陸でもあっちの国をそっちの国
とでは暦法の異なる場合がありえようが。

だいたい2000年も経過する間に、全然変更がないなどありえっこない。ww
だから1円玉数えの日数計算をしても、なおさら真の年代に辿り着けるという
単純な考えは浅はかそのものだ。美濃もん太氏は賢脳であり、宿主は知恵が
大きく足りない。ww

999 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/24(金) 13:31:00.35
1年が180余日の暦があったら、
1年が180余日の暦があれば、
景行紀60年の出来事は、30年で読める。

タラ、レバの話は、そこから、180日余の暦は、書記の暦に変換できなければならない。
それを無視して
景行紀60年の出来事は、30年で読める。
が独り歩きをしている。
つまり、この独り歩きはタラ、レバによるものであり、「書記の暦に変換できなければならない」
を無視した論である。
書紀の日付から割り出されたのであるから、書記の暦に変換できるハズ。
アテとふんどしは向こうからはずれる。
「ハズ」をアテにしても、「書記の暦に変換できていない」のが現状である。
倍年を書記の暦に変換できる手法は存在しないということである。
「日にちを数えるのは1円玉を数えるごとき手法であり・・・」
それを隠すために、怒涛の如く同じ書き込みを続ける。

こうして、嵐の太タヌキ大明神は、今日も同じ書き込みを続けるのであった。
太タヌキ大明神の“積みすぎた荷と泥船”の運命やいかに??
太タヌキ大明神の書き込みに 後ご期待あれ!!


1000 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 13:48:06.40
1000

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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